(野党が国会に出なくて)国会が空転していると政治不信がおきてしまうのではなくて、政治不信の一つのあらわれとして国会が空転していると見ることができるかもしれない

 国会が空転している。野党が国会に出るのを拒んでいるためである。野党は与党との国会のやりとりに応じないかまえを見せている。野党が不在だと国会は空転することになり、それによって国民の政治への不信がますます高まる。これはのぞましくないことであるので、野党は国会に出るべきだ、というようなことを、テレビで学者の人が語っていた。

 野党が国会に出ないことで、国会が空転している。このことと、国民の政治への不信とは、分けて見ることができる。つなげて見てしまうと二つのあいだに関わりがあることになるが、関わりはそれほど強くはないのではないかという気がする。

 野党が国会に出ないのは、国会が空転していることの表面の原因ではあっても、国民の政治への不信の原因とは見なしづらい。もし、国民の政治への不信の原因が、野党が国会に出ないことなのであれば、野党が国会に出るようにすることで国民の政治への不信は解消するだろう。しかしじっさいにはそれは解消にはつながるものとは言えそうにない。

 野党が国会に出ないのは、たんなる一つの現象である。この現象とは別に、国会が空転してしまったり、国民の政治への不信がおきていたりすることの、(表面ではない)踏みこんだ原因を見て行くのがあればよい。踏みこんだ原因を見て行くのであれば、野党が国会に出ないことが必ずしも悪いとは見なしづらい。

 形式として、野党が国会に出るようにすれば、国会は空転しないようになる。形のうえでは国会は空転しないようになるが、それでよいとすることはできそうにない。形だけが整っても必ずしも意味があるものではない。いまの国会や政治のありようは、民主主義の議会による議論がいちじるしく形骸化してしまっているのがある。それが深刻になっている。

 たんに野党が国会に出ないのを改めて、国会に出るようにするだけでは、実質が改められることにはなりづらい。元のもくあみというところがある。与野党のそれぞれの文脈の価値がすり合わないで、摩擦が大きいためである。与党の文脈だけに価値があり、野党の文脈には価値がない、とは言えそうにない。

 野党が国会に出ないでいるのは、与党のやり方にたいしての緊張が高まっているためだと見なすことができる。緊張が高まっているのをそのままにしておいて、野党は国会に出てくるようにしろといっても、ちょっと無理があるという見かたが成り立つ。野党はふつうであれば国会に出るようにするのはいるが、それとは別に、与党は緊張が高いのをそのままにしておくべきではない。与党への緊張が高いのは、膿(うみ)がたまっていて、疑問があるのに(それにたいして)きちんと答えられていないせいなのがある。与党は、さまざまに投げかけられる疑問になるべく正面からきちんと答えることがいるだろう。