反日への批判と、反日である(と言われる)ことによる批判

 反日の研究者や学者に、科学研究費が支払われている。これを支払うべきではないという意見が言われている。反日の研究者や学者に科研費が支払われているのは事実であり、この事実は動かしがたいとしている。

 事実は動かしがたいとしても、そこに価値判断や先入見が入りこむ。反日というのは反価値ということで用いられているものであり、事実に価値や先入見が入りこんでいるのを示している。客観の事実とは言いがたいものとなっている。

 反日の研究者や学者としてしまうと、独断による見かたになってしまう。この見かたから偏見につながってくる。偏見になるのをできるだけ払しょくするようにすることがいる。

 反日の研究者や学者を包摂するのではなく排斥してしまうと、画一化してしまいかねない。画一になってしまうと多様性が損なわれる。右向け右のようになり、みなが同じ方向を向くようになってしまう。ちがいがなくなってしまい、みなが同質の分身のようになる。これはのぞましいあり方ではない。異質なものがあるから多様になるのがある。

 反日であることは悪いことなのかというと、必ずしもそうとは言えそうにない。反日が悪いことなのは自明であるというのがあるとしても、その自明さはいったんカッコに入れることができる。カッコに入れられないほど確固としたものではない。

 反日は悪いことなのだというのは、まったく揺るぎないものだとは言うことはできないものである。研究者や学者が反日というレッテルを貼られるのは、不名誉なことではなくて、むしろ名誉なことかもしれない。名誉といっても、皮肉で言うようなものであり、そうしたレッテルを貼らないにこしたことはないのはたしかである。できるだけ貼るべきではない。

 反日というレッテルを貼られるのは、その人が悪いことを必ずしも意味しないものである。反日ではないのがのぞましいというのは、そう言われているのにすぎないものであり、そう言われているから正しいのだということを必ずしも意味するものではない。反証することがまったくできないわけではないものだろう。

 反日ではないのがのぞましいのだと言われているのだとしても、それをそのままうのみにすることが正しいのかと言うと、そうとはなりづらい。うのみにしないことが正しいことになると見ることができる。うのみにしないことによって、自律をとることができる。

 研究者や学者が自律していることによって、反日ではないことをよしとするあり方を批判することができる。それで反日だというふうにレッテルを貼られてしまうことになる。そのようなレッテルを貼られるというのは、自律しているのをあらわすのだから、よいことであると見なすことができる。

 反日ではないのがのぞましいと言われているのをうのみにして、それに乗っかるだけなのであれば、それは他律である。反日ではないのがのぞましいと言われているのを、無批判でそのまま受け入れてしまっている。肯定してしまっている。これは権力の奴隷のあり方である。太鼓持ちであり幇間(ほうかん)である。

 権力にたいする太鼓持ち幇間にお金を助成するのはのぞましくないという見かたが成り立つ。言うことややることが一過性のものになってしまいやすい。長い時間の流れに耐えられるようなものは出てきづらそうである。反日というレッテルの偶像(イドラ)を壊してくれるようなもののほうが、真実に迫りやすいのがありそうだ。反日というのは実体があるものではなく、虚空の表象だと言うことができるものかもしれない。