膿の生成と、動態による現実の消長の動き(推移)

 膿(うみ)を出し切る。首相はそのように語っているが、この膿はなぜ生じたのだろうかというのを見られる。色々なことによっているだろうけど、一つには、主人と奴隷の弁証法によるものなのがある。これは、哲学者のヘーゲルが説いたものなのだそうだ。

 主人は首相に当たるが、主人は主人でありつづけることはできづらい。主人は奴隷との死を賭けた戦いに勝つことで主人となるが、その戦いに勝つことによって主人であることに甘んじることになる。奴隷は主人に負けはするものの、しだいに力をつけて行く。自分を陶冶(とうや)して行き、力がついて行くことで、主人と肩を並べるまでになる。

 膿が生じたのは、主人の力が落ちてきて、奴隷の力が上がってきていることによるのがある。膿が生じることによって、主人は奴隷に大きなつけ入る余地を与えることになる。

 主人にとって膿は不利にはたらく。この膿は、主人と奴隷の隔たりを縮めるようにはたらく。もし膿が、主人によるものではなくて、ちがうものによるのであれば、主人に不利にはたらくものではない。

 希望的観測による一つの見かたとしては、主人とは関わりがなく、主人に不利にははたらかないものとして膿をとらえたいのがある。この希望的観測は、そのまま現実に通るとは言いがたい。もし現実に通るのであれば、主人は超越の位置にあることになる。

 主人が超越の位置にあるのはむずかしい。超越の位置にいたいのだとしても、現実にはそれはできづらく、引きずり下ろされることになる。祭り上げてしまうと超越に位置することになるが、それを引きずり下ろすことによって、等身大になる。身のたけになる。めっきがはがれると言ってよいだろう。そうなるのは、膿が生じたことによっていると見なせそうだ。