日本では関係による空気が重んじられるから、個がしいたげられやすいのがあり、集団が幅を利かせやすい

 役人に性の嫌がらせを受けた記者の行動は、正しいものだったのか。これを見るさいに、基本として、役人が性の嫌がらせをしたと見られているのがあり、記者はそれをされたのだから、記者は被害者であるというのがある。絶対にそうだということは言えないかもしれないが、基本としてはそのように見なすことができる。

 記者のとった行動は完ぺきに正しいものではなかったかもしれないが、行動に非があるとしても、非があるから駄目だとは言えそうにない。非があるから駄目だとしてしまうと、記者に原因を当てはめることになってしまい、原因の当てはめまちがいになりかねない。記者という人の内に原因があるとするのではなくて、外に原因があるとすることができる。

 アメリカや西洋の社会では、個が独立していることができやすいが、日本ではそれができづらい。個が独立してあるのは絶対の主体だが、日本ではそうではなくて関係の主体となりやすいと言われている。組織の中で、個は独立しているのではなくて、関係としていることになる。組織の空気にさからいづらい。組織の空気が第一としてあり、それを読まないことには組織の中ではやって行くことが難しいのがある。

 組織の空気というのは、組織の中の個を守るようには必ずしもできてはいない。組織の中の個を多かれ少なかれ犠牲にすることによって、組織が成り立っている。みんなが平等のあつかいというのではなくて、閉じたようになっていて、経済権力が下の者にふるわれる。下の者は支配をうける。

 いざというさいに、個を救うようにはできていない。よほど強い個でないかぎりは、集団の力に押しつぶされてしまう。集団と個では、集団に分があるのは明らかであり、その集団が国家であるのならなおさらのことである。個がたちうちできる相手ではない。集団や国家は強者であり、個は弱者であると言えるのがある。強者よりも弱者の立場に立って、弱者を救い出すことがいる。じっさいには色々な例があるだろうから、一概には言えないのはあるだろうけど、日本の社会では、残念ながら、個を救い出すようにはほとんどなっていないのが現状なのではないかという気がしてならない。