遊牧論の倫理

 地位にしがみつく。まずそれがあり、そこからどうやって地位にしがみついたままでいられるのかをさぐる。そうなってしまっているような気がする。これは偏執症(パラノイア)のあり方と言えそうだ。この偏執症のあり方が行きすぎると、偏執症がこうじてしまい、非倫理となりかねない。

 偏執症のあり方が行きすぎないためには、遊牧論(ノマドロジー)のあり方をとれるとよい。遊牧論による倫理というのがあげられる。遊牧論では、偏執症のようにしがみつかない。もし何かあれば、地位を引き下がるのをいとわない。見切りや切断をする。

 偏執症のあり方をとって行き、ものごとを積み上げて行く。ためこむ。こつこつとためこんできたものを手ばなすのはおしい。そこで手放したくないとなり、地位などにしがみつくことになるけど、あまりしがみつきすぎると、はたから見ていて見苦しいのがある。

 偏執症のあり方を補強するのではなくて補正することができるとすると、遊牧論のあり方をとることになる。遊牧論といっても色々とあるのだろうし、その本質をとらえ損なっていて、うわべでものを言ってしまっているおそれがあるが、それはひとまず置いておけるとする。そこで言えることの一つとして、偏執症のためこみやしがみつきが豊かさにつながるとはかぎらないのがある。

 ためこみやしがみつきによって、何かの邪魔になってしまう。ためこみやしがみつきをなくすことによって、何かの邪魔にならないようにすることができる。邪魔になるかならないかは、見かたによってちがってくるのはあるかもしれない。そこのさじ加減はむずかしいのがある。必要ではあるが、悪くはたらいたり邪魔になってしまったりといった二つの面があると見なすことができる。

 世の中から遊離するのは、根なし草となるものである。この根なし草のあり方は、悪いことだというのがあるが、そのいっぽうで、高等遊民のようなものにつながらないでもない。高等遊民(またはたんに遊民)は、世の中から多少の距離をとることができるので、遊牧論のあり方となり、世の中にたいする批評ができやすい。世の中に強く参与(コミット)していなくて、離脱(ディタッチ)していることによる。

 参与(コミット)しなくて離脱(ディタッチ)ができるのは恵まれたことだと言えるかもしれない。その点については否定できないのがある。そのいっぽうで、世の中に強く参与(コミット)してしまうことからくるまずさもあげられる。世の中がそれを強いているのもまた無視できない。参与や参入するのだけをよしとして、それを強いるのは、それ自体があまりのぞましくはないということもできるだろう。

 ためこみやしがみつきを手放すことで、捨てることになるが、この捨(しゃ)のあり方のよさがあると言われている。捨による豊かさだ。捨てるのはいつもできることではなく、難しいのもあるけど、それができればよいのはあるので、適したときに行なえるとさいわいである。