自己了解ではなく、相互了解のあり方でものごとをやって行ければよい(独話と対話のちがい)

 自己了解によってものごとを進める。その自己了解は、すべての人をうなずかせられるものではない。ある人たちはうなずく。その人たちは包摂される。そのいっぽうで、うなずくことができない人たちは排斥される。

 排斥されてしまう人たちは不満をもつ。その不満は社会の中で緊張をもたらす。緊張がだんだんとたまってゆく。その緊張がデモとなってふき出す。この緊張は、デモにつながるものだけど、デモを行なったところで解消するものではない。

 包摂されない人たちは排斥されてしまうわけだけど、それを改めて、包摂性と競争性によって、権力が交代するようにしないとならない。ある特定の人たちに顔を向ける誘因を為政者がもつのはあるだろうけど、それをやってしまうと、公平さが損なわれてしまう。

 緊張というものが無視できないくらいにまで高まっているのがあるとすれば、それを和らげるためには、自己了解でものごとを進めるあり方を改めることがいる。自己了解でものごとを進めていってしまうことで、緊張が高まってしまう。これは、一のあり方をとるものである。一とは、反省しないで(または自分に都合よく反省する)、失敗しないで、挫折しないものである。その一のあり方をとるのが行きすぎると、現実と分裂することになるから、けっきょく一のあり方にはなりづらい。

 ずっと一のあり方のままではいられづらいのは、客観として一ではいられなくなるからである。客観ではなくて、主観としての一というふうになって行く。客観であれば、かくあるべき当為(ゾルレン)とかくある実在(ザイン)が一つに合っているが、主観になることでその二つのあいだにみぞが開く。かくあるべきものがそのままかくあるものとなっているのは保ちづらい。ほんの一瞬くらいしか保てない。それをずっと保てると無理やりしてしまうのは、(見かけは大人であっても)大きな子どもであると言えるだろう(厳しく言えば)。