否定の契機としての膿(まずは、潜在している膿をできるかぎり顕在化させることがいるだろう)

 膿(うみ)を出し切る。首相はそのように言う。この膿を出し切るさいにいるものとは何かというと、膿を出すのをになう人である。膿を出すのをになう人とは何か。それは権力の中心にいたり、中心の近くにいたりする人ではない。絶対にというふうには言えないけど、中心や中心に近いところにいる人には、膿を出す役をにないづらい。

 膿を出すのをになうのは、ふだんは中心から遠ざけられていて、周縁にいる人がふさわしい。これは文学でいわれるカーニヴァル理論と関わってくるものだろう。カーニヴァル理論では、殺される王の主題がとられる。殺される王として、冬の王がいすわっているわけだけど、その王を膿だとすることができる。冬の王がいすわっているのをやめさせることで、春(夏)を呼びこむ。春の復活である。

 権力の主体を冬の王だと見なすのは、すべての人にうなずいてもらえるものだとは言いがたい。人によってはうなずきがたいものではあるかもしれないが、かりに権力の主体があるとすると、その権力の維持は虚偽意識(イデオロギー)によってなり立つ。虚偽意識は現実とはぴったりと合わないものである。ぴったりと合わなくてみぞがおきるのがあり、そのみぞを批判するのは、ふだんは権力から疎外されている者による。

 権力から疎外されている者は、ただ疎外されたままというのではなくて、機会(チャンス)が来れば活躍することができる。機会が来れば、中心に近いところに躍り出て行くことができる。その機会が、たまった膿を出し切るときだと言えそうだ。膿を出し切るのに適した役になることができる。ふだんは日の目を見ないで中心から疎外されていることが、反転することになる。裏と表が反転するといったあんばいだ。