国益という記号表現(シニフィアン)における記号内容(シニフィエ)は、人によってとらえ方がちがうものだから、不確かなものであると言えそうだ(ずれがおきざるをえない)

 学問の自由は尊重したい。しかし、ねつ造は駄目である。このねつ造とは、主に従軍慰安婦の問題についてのことである。国益に反するようなことは、国費を投じるのはのぞましくなく、自費でやってほしい。国費(税金)を反日活動に使うのは納得が行かない。自由民主党の議員の人は、こうした内容のツイートをしていた。

 学問の自由は尊重したいが、ねつ造は駄目であると自民党の議員の人はしている。ねつ造が駄目だということでは、国益がねつ造ということはないだろうかという気がする。国益というもの(の必要)をねつ造してはいないのだろうか。もししているのだとすれば、国益のねつ造はやめるべきだろう。

 学問の自由を尊重するということだけど、学問の目的の一つとして、真実がどうなのかを見てゆくというのがありそうだ。真実や事実がどうなのかを見てゆくのは、国益よりも優先されるのがよい。真実や事実を見てゆくのが国益よりも優先されることで、それが国益になる。絶対にというわけではないけど、そう見なすことはできそうである。

 国益を学問の対象にすることはできないかというのがある。それができるとすると、国益学というのが成り立つ。国益学ができるとすると、国益にならないものをとり上げることをすることになる。こういう根拠においてはこれが国益と見なせそうだが、それとは別の根拠ではちがうことが言える、といったふうにできるものだろう。一つではなく色んな学説がきっととれる。

 国益は万人にとって益となるものだとは言いがたい。国益というのを一つの記号として見ることができるとすると、どういったものを国益と見なすのかは、人によってまちまちとなる。人によってずれがある。ある人が国益と見なすものは、別の人にとっては国益ではないことがある。

 人によってとらえ方がちがう。そのちがいがあるのからすると、国益とは一つの仮説だと言えそうだ。国益じたいが一つの事実や真実だとは言いづらく、神話作用がはたらいている。客観のものではなく、主観によるものだということが言える。

 国益を否定するのを反日活動だと見なす。そう見なすのがあるとして、国益を否定するのは、国益を反証するということであり、それはまちがったこととは言えそうにない。国益を認知するさいに、確証(肯定)の認知の歪みがはたらくとすると、正しい認知とはならなくなる。それを反証することがいるだろう。その反証をするのは、反日活動とは言えないものである。反日活動ということも反証してみないとならない。

 国益にかなうということで、確証(肯定)をしてしまうと、独断になりかねないのがある。独断から偏見につながりかねない。国益にかなうかどうかというのは、分類をしているのであり、分類には解釈が入っている。解釈には先入見が関わってくる。国益にかなうかどうかとして見ると、先入見をはたらかせてしまい、虚心で見ることのさまたげとなる。

 国益は観念であり、それは思いこみによって成り立つ。国益の表象(イメージ)をたまにはとりはずしてみることができればよい。国益と言ってしまうと、あたかもそれが確かにあるかのように響く。しかし、確かにあるというよりは、一つの仮説にすぎないものなのだから、国益と言い切ってしまうよりは、国益のようなというふうにするのはどうだろう。見まちがえているかもしれないのがあるから、国益のようなというふうにとどめておくと無難である。国益にかなわないとするものでも、国益でないようなものとすれば、頭ごなしに切り捨てることにはなりづらい。

 国益が実体としてあるのかというと、そういうふうにも見ることはできるが、そうではないとして見ることもできる。反実体として見られる。反実体として見るのであれば、実体ではないものが国益である。国益国益に反するものは、関係としてあるのにすぎない。国益に反するものがないのであれば、国益もまたない。国益に反することがあってはじめて、国益がある。その二つのあいだの線引きは揺らいでいるものとできる。