ある理論や主張がよいとして、それをとっている人をよしとしてしまうと、象徴化することになる(その人のもっているほかのさまざまな部分が捨象されてしまう)

 経済の、量的金融緩和の理論がある。経済のほかに、憲法では、憲法の改正の主張がある。それらを首相はとっているわけだけど、それらの理論や主張をとっているから、首相は正しいというふうになるのだろうか。

 ある理論や主張を正しいものであるとできるとする。それをとっているのが首相であることから、首相のことを最後まで全面として支えて行く。首相をよしとして支えて行くのは、あくまでも(首相がとっている)ある理論や主張が正しいからなのにほかならない。

 ある一つの理論や主張が正しいからといって、それをとっている人まで正しくなるのかというのはちょっといぶかしい。かりにある理論や主張が正しいのだとしても、それをとっている人は正しくない、ということもあるだろう。

 ある人がいるとすると、その人の全体があるとできる。その全体のうちで、ある理論や主張をとっているのは、その人の中の部分にすぎない。部分と全体は等しいものではなく、解釈学の循環構造というのがおきるとされる。部分を見たときと、全体を見たときとでは、ちがう見かたになる。

 部分から全体へとつなげてしまうと、一斑を見て全豹を卜(ぼく)す、ということになりかねない。過度の一般化であり単純化である。性急に一般化してしまっているのである。この一般化や単純化は不正なことがある。一斑を見るのと全豹を見るのとを分けることがいるだろう。

 ある理論や主張をとっている人の集合(外延)というものがあると見なせそうだ。その集合の中に、健全な人もいれば不健全な人もいるだろう。よい人もいれば悪い人もいる。つり合いのとれた人もいれば偏っている人もいる。意志が強い人もいれば誘惑に弱い人もいる。一人の人の中に、それらのあり方がちょっとずつ含まれているというふうに見なすことができるのもある。完全な人間はいないということではそう言えるものだろう。

 ある理論や主張が一つの根拠となって、そこから、その理論や主張をとっている人を信頼できる、となる。その根拠のところを見てゆくことができる。はたしてふさわしい根拠となっているのかどうかというと、そうとは言い切れそうにない。言い切ることができないのは、一つには、ある理論や主張をよしとしている人にとっては、同じあり方の人を信頼して共感できるだろうけど、それは同じあり方どうしということで成り立っているものだと見なせる。

 自分がよしとしている理論や主張と同じものをとっている人だからといって、その人のことを信頼することができるものだろうか。信頼するかどうかはその人の自由だというのはある。自由ではあるのはたしかだが、その判断が正しいということには必ずしもなりづらい。判断がなるべく狂わないようにするためには、信頼ではなくその逆の不信をもつくらいであるほうがよいことが少なくない。まったくもって信頼してしまうのではなく、少しくらいは不信を持っていたほうがよいだろう。

 ある理論や主張に、絶対の揺るぎない正しさがあるかどうかはいぶかしい。もし絶対の揺るぎない正しさがあるのであれば、科学や学問の営みをこれから先に行なう意味がなくなるのではないか。科学では、それまでに正しいとされていたことがくつがえされることがしばしばおきるという。移り変わって行く。科学の営みはこれからもつづいて行くのがあるのだから、絶対に揺るぎない正しさは無いというふうに見たほうがよいのではないかという気がする。

 ある理論や主張が、そのまま正義と直結するのかというと、そうとは言い切れそうにはない。これについては、動機と結果を分けることができる。手段と目的で分けることもできる。ある理論や主張は、それが目的というよりは、手段だと見なすことができる。目的が達せられるのであれば、どのような手段でもとくによいとも言えるから、手段に必ずしもこだわらないでもよい。手段にこだわるのは手段の目的化である。それを避けたほうがよいものだろう。手段の目的化になり、正義といちじるしく隔たってしまうこともあるから、そうなってしまうと危ない。教条(ドグマ)になることになる。

 ある人が、どういった理論や主張をよしとしているのかとは別に、たんに人一般として見ることができる。人一般として見るのではなくて、どういった理論や主張をよしとしているのかの点で見るのだと、一般として見ることにはなりづらい。固有性で見ることになりやすい。固有性で見てしまうと、価値判断が中立ではなくなってしまうおそれがある。できるだけ中立の価値判断をするためには、人一般として見るのがふさわしい。権力者であるのなら、(とりかえがきく)権力者一般として見るようにする。

 偏向した見かたになってもかまわないというのなら別だけど、そうではないのであれば、とりかえがきくとして見るのがよい。とりかえがきかないものとしたいのがあるのだとしても(それは分からないではないが)、いったん反対に振るようにする。反対に振るようにして、とりかえがきくものとして見たときにどうなのかとする。こうすることで見かたを補正しやすい。メタ(上位)の視点に立ちやすい。たんにとりかえがきかないものとしてしまうと、固有性を持つものとすることになり、偏向してしまいやすい。具体のものとして特別視してしまう。