選挙の妨害と、人々の生命本能(正義)の妨害(選挙が妨害されないことが、人々の生命本能を満たすことには必ずしもならない)

 首相は辞めろ。選挙の期間のときに、そうした叫びを一部の人があげていたのを、選挙妨害であると首相は言う。辞めろと言っていた人たちを、こんな人たちと呼び、こんな人たちには負けるわけには行かない、としていた。選挙の期間のときは、首相は候補者であり、候補者の演説はおとなしく聞いていなければならないとしている。

 首相が言うように、選挙の活動にたいする妨害はのぞましくはないことだろう。のぞましくはないことはたしかだけど、それとは別に、選挙がきちんと機能しているのだろうかというのがある。選挙の活動が妨害なく行なわれることと、選挙によって民意が正しく反映されることとは、必ずしも結びつくものではない。

 選挙の活動が妨害なく行なわれることで、かえって民意が歪められるということもないではない。選挙のあり方が、民意をぬかりなくすくい取るようになっているのなら別だけど、現実としてはそのようにはなってはいないものだろう。なので、選挙の活動が妨害なく行なわれれば、民意がぬかりなくすくい取られるという前提をとることはできそうにない。

 選挙には形式の合理性があることはたしかだけど、実質としての正義がはたされるものとは言いがたい。(一票の格差というのはあるわけだけど)一人一票として、平均の正義にはよっているが、実質としては、大衆迎合(ポピュリズム)になってしまったり、(高齢者の方には申し訳がない言い方になってしまうが)高齢民主主義になってしまったりする。投票率の低さも無視することができそうにない。

 少なくとも形式の合理性は選挙を行なうことで満たされるのだから、それでよいではないか、とすることもできないではない。そう見なすことはできないではないけど、それでよしとして終わりにするのに待ったをかけることができる。問題の発見ということでは、問題を発見することができるのがある。

 問題というのは、選挙のあり方(行なわれ方)の問題と、現行の政権の権力が維持されてしまうことの問題である。その二つの問題があるのだという気がする。選挙の行なわれ方では、有権者が判断するのにほんとうに必要な情報や争点が隠されてしまっているのがある。その隠された情報があれば、判断はまたちがってくるのがある。

 現行の政権の権力が維持されてしまうのを、よしとすることもできるけど、まずいとすることもできる。よしとする人が多いことで選挙には勝つわけだけど、よしとする人が多いからといってそれが正しいことだとは必ずしも言うことはできそうにない。よしとする人が相対として多くて選挙に勝ったからといって、問題が無いことを意味するわけではない。問題があるのにもかかわらず選ばれて(勝って)しまうことがある。

 問題があるのだとするのが正しいこともあるわけだから、そうであるのだとすれば、候補者の演説よりも、問題があるのだという訴えのほうが優先されてもよいのではないか(一つの試しとして)。それでは選挙が成り立たないというのもあり、選挙を成り立たせるのを優先させることもできるわけだけど(それがふつうだけど)、選挙を成り立たせるのを優先させることが、問題を隠してしまうこともあるのはたしかだ。

 選挙を成り立たせるのを優先するのはふつうのことだけど、そうすることによって、かえって問題が隠されてしまうのがあり、それを問題だとすることができる。これはあくまでも、選挙を成り立たせるという形式の合理性よりも、問題の発見をより優先させてみたさいの見かたによるのにすぎないものではあるから、大かたの人を納得させられるものではないのはまちがいがない。