手がらの真実味

 かりに自分(たち)の手がらであったとしても、そうではないとする。婉曲表現をとる。そのほうが、手がらであることの現実味や真実味は陰画(ネガ)のような形で浮かび上がるのではないか。

 これは自分(たち)の手がらであるのにほかならないとして、陽画(ポジ)としてしまうと、手がらではないのにそう言っているのではないかという見かたがとれてしまう。それを陰画として、別の陽画が立ち上がってしまうといったあんばいである。