土俵に男性しか上がれないのは、力への意志であり、さまざまな遠近法(パースペクティブ)の一つにすぎないとして相対化して見ることができそうだ

 相撲の土俵は、男性至上主義によっている。そこへ女性が上がるのは認められていないものであり許されるものではない。もし上がるということであれば、それはかまわないが、男性至上主義の人に襲われたり命をねらわれたりすることがあるのを覚悟したうえで上がるべきである。一つの見かたとしてこのように見るのがある。

 相撲の土俵は男性至上主義によっているとして、それは正しいことなのだろうか。相撲は武道のようなものであるとすると、武道の精神というのは、弱い者を助けて強い者をいさめたりくじいたりするものだと言えそうだ。その精神にもとることをやってはならないのがある。

 男性至上主義者が、土俵に上がった男性ではない人を襲うのは、卑怯なことであるだろう。他者危害原則に反している。その卑怯なことをよしとしてしまうのが相撲のあり方であるというのはちょっと筋が通りそうにない。卑怯なことをするのはあってはならないというのがまずはいるものだろう。

 相撲の土俵は男性至上主義によるものだというのがかりにあるのだとしても、それは安定したものなのではなくて、揺らいでいるものだと見ることができる。不安定になっている。男性至上主義による場所が土俵であるということの土台(根拠)はぐらぐらとしている。

 なぜ土台や根拠がぐらぐらとして不安定になっているのかというと、修辞(レトリック)によっているためなのがある。この修辞は啓蒙による神話だと言えるものであり、啓蒙が野蛮に転化してしまう。神話は啓蒙であり、啓蒙は神話に退化する。そうした啓蒙の弁証法がはたらく。

 男性至上主義を助長してあと押しするのが相撲の土俵であるとして、それはのぞましい場所(空間)であるといえるのだろうか。男性至上主義は誰がどう見ても正しい主義だとは言えないものであり、それを助長してあと押ししてしまうのであれば、きれいな場所(空間)だとは言えないことになる。きれいな場所(空間)に、きれいでないものを入れさせないというのがあるとしても、そもそもその場所(空間)がきれいではないものなのではないか。

 きれいではないから入れさせないとしているものを、客として迎え入れたらどうだろう。客迎えによるものである。そうすることによって不合理な差別をおこさせないことにつなげるきっかけにできる。男性至上主義をとっているとして、その場所に男性を客として迎え入れるのでは、不合理な差別はなくならない。男性でない人を客として迎え入れるのを、一つの試しとしてやるのはどうだろうか。画期(エポック)となるのではないかという気がする。