神話(ミュートス)を知りたいのではない(上からの神話は演繹であり、必ずしも実質をもってはいない)

 ほんとうのことを知りたい。ことの真相を知りたいということで、その需要にたいして、供給がきちんととられているのかがいぶかしい。ほんとうのことや真相というのは、神話(ミュートス)のことではない。たとえ上から(上に都合のよい)神話が供給されたのだとしても、それで下の人たちがもつ需要が満たされるものではない。かえって不満が高まってしまう。

 上からの、上にとって都合のよい神話の供給ではなくて、真理(真偽)がどうなのかを知りたい。権力の維持は、何らかの神話によるのがあり、虚偽意識(イデオロギー)によるのがある。その神話や虚偽意識は、現実とぴったりと合ったものではなくて、ずれてしまっているものである。そのずれが大きくなってくると、おかしいのではないかという批判の声が高まってくることになる。この批判がまちがっているというわけでは必ずしもない。

 神話と現実というのをさい然と分けてしまうのはまちがいかもしれない。お互いに関係し合っているものであり、二つをはっきりと分けるのはできづらく、分類線は揺らいでいるものではあるだろう。

 現実の中に神話のようなものが少なからず混入してしまうのは避けづらいけど、神話が主となってしまうのだとまずい。現実を無視してしまうあり方である。神話を主としてとってしまうと、大きな物語や支配の物語となる。その物語がはたして通用するのかというと、いまは情報過密社会なのがあるので、通用しにくいものである。物語が破局になりやすい。

 上からの(上にとって都合のよい)神話としての物語が破局に向かい、雑音が混じってくる。物語の維持にとっては雑音はのぞましくないものだけど、そのいっぽうで雑音はときとして神話の物語の虚構をあばく。神話の物語の破局や分解は、雑音が混じることによっておきてくるとして、現実が更新されることにもつながる。大きな物語や支配の物語が完全には通用しなくなることをあらわす。神話の物語が陶酔の作用をもたらすとすると、それが破局することで覚醒(目ざめ)につながる。

 何が陶酔で何が覚醒(目ざめ)なのかというのは一概には言えないものだから、そこに気をつけなければならないのはありそうだ。とりちがえがおきることがないではない。それがあるとして、上からの神話による物語は、共同幻想であるのがある。集団主義として、集団を重んじすぎるのがあると、共同幻想が幅をきかせるようになる。そこから多少の距離をとれるのがあるとよい。