土俵に上がることの効用

 女性は土俵には上がれない。女性が土俵に上がったとしたら、ただちに土俵から下りるように強いられる。あとでたくさんの塩をまかれる。女性が土俵に上がれないのは相撲の伝統によるものらしい。この伝統ははたしてふさわしいものなのだろうか。

 伝統というのもあるのだろうけど、それとともに、既成事実だからということがありそうだ。教条(ドグマ)になっていて、既成事実だからということで重みをもってしまっている。その重みをとり払うことができるとすると、既成事実となっているからといってふさわしいものだとは言えそうにない。性の属性がどうかということで、不合理な差別になってしまっている既成事実であるのなら、それを変えたほうがよくなるのがある。

 女性が土俵に上がれたほうが、功利主義からいうと、全体の効用の総量は高くなる。世の中には男性と女性が半々くらいでいるものだとすると、女性は半分にあたるので、その半分にあたる女性が土俵から排除されているのは効用を損なう。みんながみんな土俵に上がりたいわけではないかもしれないが、上がれるのなら上がりたい人はいるだろう。いざというさいに、上がれるようになっていれば、さしさわりがない。

 今までがそうだったから、それを守った方がよいというのは、わからないでもないことである。気持ちとしてはわからなくはないものではあるけど、そのあり方がよいことなのかどうかはまた別の話である。社会関係(パブリック・リレーションズ)ということでは、どういった倫理観をもっているのかをつまびらかにするのがよい。一つの文脈による団体があるとして、それと世間とのあいだで一方向のあり方になるのだとまずい。双方向になるようにして、必要であれば修正がきくようであるのがのぞましいものである。相互流通することがいるものだろう。