森◯学園の問題は具体の事例だけど、それとは別に、一般として言うと、法による法治は(人治と比べれば)国民の得になるというのはありそうだ

 森◯問題を解決したところで、誰一人として得をしない。国民生活は何も変わらない。くそみたいなことを、あいつらはしているのにちがいない。お笑い芸人の人が、テレビ番組においてこのようなことを述べているという。

 お笑い芸人の人が言っていることは、必ずしも頭からまちがってはいそうにない。森◯学園の問題を解決したところで、誰一人として得をしないし、国民生活は何も変わらないというのは、たしかにそうした見かたはできる。この見かたをとってしまうと、欠点があることもたしかであり、その欠点とは、政権与党の思わく通りの見かたになってしまうことになる。それではたしてよいのかというのは言えるだろう。

 森◯学園の問題を批判して追求しているのは、くそみたいなことをしているというふうに言えるものだろうか。ろくでもないことをしているというふうに見てしまうと、批判や追求をしている人たちにたいして、動機論の忖度をはたらかせていることになる。動機論の忖度をはたらかせるのではなくて、理由(argument)がどうなのかというのを見て行ければよい。理由や原因があって、批判や追求をしているのがあるからである。

 損か得かというふうに見てしまうと、二元論になってしまう。損か得かだけで割り切ることはできるものではないとして見ることができるだろう。損に見えて得になったり、得に見えて損になったりすることがある。損と得は、必ずしも確かな同一さをもつものとは言い切れない。損が損のままでは終わらなことがあるわけだから、損に見えることを絶対にやらないほうがよいとは言えないものだろう。

 損か得かでは、短期と長期の二つの見かたから見ることができる。短期としてはたとえ損になるとしても、長期としては得になることがある。短期では得になっても、長期としては損になることがある。時の為政者が法を破ったとして、それがおとがめなしですまされるのなら、短期としては得になるかもしれないが、長期としては損になるだろう。特例のようにして許されるという前例をつくってしまうのだと、一貫性が損なわれて、示しがつかなくなる。

 厳格主義(リゴリズム)を当てはめることができる。あまりに自由すぎると、恣意に流れていってしまうのでまずい。厳格主義によってものごとを見る視点があってもよいものだろう。きちんとものごとを行なってゆく義務があるのであれば、そこはなるべく厳格になされることがいるのがある。国民にたいしては(納税などの)義務の厳格さを求めるが、為政者はそうしなくてもよい、というのでは二重基準である。

 厳格主義としてかりに見るとすると、義務であるものであれば、それは損になろうと得になろうとどちらであってもやらないとならない。損になるからやらないとか、得になるからやるということでは、結果がどう出るかということで決めることになる。結果とは関わりなく、義務は義務としてやるのがいるのだということもできる。結果が得になればというのは仮言命法だけど、そうではなくて、定言命法のあり方だ。

 森◯学園の問題については、(お笑い芸人の人が言うように)それを解決したところで、国民にとっては何の得にもならない、という見かたを一つにはとることができるのがある。そのうえで、その見かたが必ずしも正しいとは限らないこともたしかだ。この見かたをとってしまうと、森◯学園の問題は深刻でも重大でもなく、解決しなくてもよいものだとなる。問題が無いのだとするあり方だ。その見かたの逆として、問題があるものであり、深刻であり重大であり、ほうっておくとまずいことになり、解決が探られないとならない、とすることができる。問題解決のためには、まずはじめに、問題が発見されなければならない。隠ぺいされてはならないということだ。