げすの勘ぐりだからだめだというのは必ずしも言うことはできそうにない(げすの勘ぐりをしないことが正しい見かたとなるとは必ずしも言うことはできない)

 そんなのはげすの勘ぐりだ。首相にたいして批判の目を向けようとしたのを、げすの勘ぐりだとしてたしなめる。亀井静香氏はテレビ番組の中でそのようなことをしたという。亀井氏は、少し前の日に首相と会食をしているみたいなので、首相に肩入れしているのだろうか、とついつい勘ぐってしまった。

 げすの勘ぐりに否定の見かたをとっているのが亀井氏であるけど、それとは逆に、むしろげすの勘ぐりをするべきだというふうに言ってみたい。げすの勘ぐりは否定されるものではなく、その逆に推奨されることである。

 げすの勘ぐりはできるだけしてほしくないというのが、首相による政権与党の思わくだろう。げすの勘ぐりはできるだけしてほしくないという思わくであるのなら、その逆をするのがあってよい。勘ぐりはしてほしくないという思わくを勘ぐるべきである。

 勘ぐりをはたらかせるのにおいて、いかに勘ぐるのがよいかというのがある。げすの勘ぐりはやめるようにということであれば、それを勘ぐることによって、げすの勘ぐりをするのがいるのだというふうに勘ぐることができる。

 げすというのは、中心ではなくて周縁にあたるものだろう。中心の思わくがあるとすると、それにそのままのっかるのではなくて、周縁であるげすに身を置いたほうが、正しい見かたにつながることが少なくない。中心に身を置くのだと、権力の奴隷になってしまう。中心ではなく周縁であるげすになることで、権力の奴隷になるのを避けられる。

 首相が言うことについて、それにたいしてげすの勘ぐりをはたらかせないようにするのがふさわしいとは言えそうにない。首相が言うことにげすの勘ぐりをはたらかせないのであれば、首相が言うことを雨だれのようにただそのまま受け入れるだけとなる。大本営発表のように、受け入れたものを垂れ流すことになりかねない。無批判なあり方だ。

 首相が言ったことであるとしても、それがものごとの結論であるとは言い切れない。森◯学園の問題においては、首相をふくめた政権与党は、状況証拠などの事実をきちんと認めてはいない。自分たちに都合の悪い事実は、認めないで否認してしまっている。これでは、きちんとしたまともな問題解決はできるものではない。問題にきちんとした対応ができていないのである。

 まったく非の打ちどころのないほどに正しいことを言っているのではないとすれば、非となるところを言挙(ことあ)げして行くのがあるほうがよい。言挙げしてはならないというのであれば、首相をふくめた政権与党をいたずらにたてまつることになり、美化することになってしまう。美化するよりも、本当のところはどうなのかということのほうがより大事である。

 首相をふくめた政権与党が、まったく非の打ちどころのないほど正しいことを、いついかなるさいにも言うのだというのなら、その前提はおかしい。人間であれば、絶対にまったくもって正しいことをいついかなるさいにも言うことはできづらい。認知の歪みが少なからずはたらくのがあり、それによって何かを言うことになる。絶対ではなく相対によることを言うのであるから、言っていることの根拠や論拠について、どんなものによっているのかを批判することがいる。根拠や論拠が受け入れられるものなのかどうかは、受けとる人が決めることである。

 世の中には絶対にこうだということは(そうそうは)ない。亀井氏は、役人が事前に首相にうかがいを立てることは絶対にない、とテレビ番組の中で言っていたそうだけど、絶対にないということは言い切れないものである。何か原則があるのだとしても、それには例外はつきものだ。直接に役人が首相にうかがいを立てるのではないにしても、間接にうかがいを立てることはないではないことだろう。絶対にそうしたことがないというのだと独断となり、必然となるわけだけど、そうではなくて可能性としてあるというふうに見なすことができそうだ。絶対にこれこれは無いというのを、逆手にとって悪用することもある。