言うことにおいての、その内容が、ほかのものと照らして、整合したり対応したりしているのかどうかを無視できそうにない(不整合だったり対応していなかったりするのなら、厳しく見れば、本当のことを言っているとは見なしづらい)

 森◯学園の問題は、大したことなのか、それとも大したことがないのか。二つの見かたができるとして、大したことだともできるし、大したことがないともできるかもしれない。

 森◯学園の問題よりも、もっと大事なことが色々とあるというのは、森◯学園の問題は大したことがないと見なすことである。いやそうではなくて、大したことなんだというふうに見ることができるのもたしかだ。

 二つの見かたのちがいは、根拠としてどういうのをとるのかによってちがってくるのがある。根拠がちがえば見かたがちがってくるので、そうした点で言うと、絶対にこうだというのではなくて相対によるということができる。

 森◯学園の問題は大したことではなくて、それよりもより優先してやらないといけない大事なことが色々とある。この見かたでは、いまの政権与党のもつ文脈をよしとしている。いまの政権与党のもつ価値と、すり合っているのである。なので、いまの政権与党を批判したり否定したりするのを、文脈や価値が合わないものだと見なして、不信の目で見ることになる。

 大したことではないのではなく、森◯学園の問題は大したことなのだというふうに見るのでは、いまの政権与党の持つ文脈にたいして、すり合わせることができない。いまの政権与党のもつ価値が、正ではなく負の価値になっている。負の価値をもつ政権与党にたいして不信をもたざるをえない。とてもではないが信頼がおけないのである。

 どこに価値をおいて、どこを信頼するのかの点で、ちがいがある。政権与党に価値をおいて信頼するのであれば、それを批判したり否定したりするのはまちがったことだと見なすことになる。いっぽうで、政権与党を負価値として不信であるものとするのだと、それを批判したり否定したりするのがふさわしいことになる。

 政権与党を負価値として不信であるものとするのが、うむを言わせずに正しいものだとは言えないかもしれない。うむを言わせないほど正しいとは言えないとしても、それなりの正しさというのは少なくともあるものだろう。国民の代理であるのが政治家であり、ぴったりとお互いが一致しているわけではなく、多かれ少なかれずれがおきてくる。ずれがおきて、負価値となり不信となるとして、それが大きくなってしまうのだとまずい。正統性が失われることをあらわす。権力を維持することができづらい。

 みんながみんな負価値として不信をもっているわけではないのだから、人それぞれということはできるだろう。政権与党にたいして正の価値をもち信頼している人もいるのはたしかだ。それがもてている人たちはよいわけだけど、もつことができない人たちもいる。価値や信頼がもてず、負価値や不信となるのだとまずいことになる。

 負価値や不信は、主となる価値がお互いにずれてしまっているので、みぞができる。言うことである伝達情報を、そのままの言葉どおりには受けとれなくなる。言うことが虚偽になり通じなくなるといったことになり、これではまっとうな社会状態として成り立ちづらい。国民主権ということでは、主権をもつ国民にたいして虚偽ではない伝達情報を言うのがいるだろう。肝心なところで虚偽の伝達情報を言うのだと、(建て前としての)正義が失われる。言ったことを国民がどう受けとるのかは、人によってちがうものではあるけど。