正論というよりも、共感という語を用いたほうが少し適しているかも

 森◯学園よりも、ほかに重要なことがらがある。財務相はそのように国会において述べて、あとで謝罪することになった。謝罪とはいっても、もし誤解をまねいたのならということであるから、身を入れたものとは言えないものではある。謝罪をすることになったとはいえ、この発言を正論だとして肩をもつ報道機関もあった。

 財務相の述べたことは、はたして正論だったのだろうか。正論とはちょっと見なしづらいものである。一つの意見というのにとどまっているものだろう。正論と言ってしまうと、絶対のもののような響きがあるが、そうではなくて、相対の意見であるのにすぎない。

 財務相は、政権与党の中にいる人であり、政権与党としては、なんとか森◯学園の問題を沈静化させたい。世間で大きく騒がれたくないのである。政権与党においては、情報量として小さいようになっている。すでに、政権与党は悪くないという結論をもってしまっているからだ。しかし、世間としては、情報量が大きいようになっている。

 政権与党の情報量は小さいが、世間の情報量は大きい。量の大小というちがいがありそうだ。このずれをそのまま放っておくのではなくて、なんとかする義務と責任が政権与党にあるのではないか。このずれをそのままにして放っておいて、そのうち何とかなるだろうとして、時間のすぎるのを待っているのだとすると、のぞましいあり方とは言えそうにない。

 世間は有権者によってできているものであり、有権者は自己統治をするために、情報を知ることがいる。自己統治は権力の監視である。色々な情報が公開されて知ることができるようであるのがのぞましい。それで知ることができる情報の中にも色々なものがあるだろうけど、有権者の自己統治のために情報はあるのだから、その情報をもとにした有権者(の一部)からの声にたいして、政権与党はなるべく耳を傾けるようであるのがよいものだろう。

 もうすでに政権与党は悪くはないという結論をもっているのだと、情報量は小さくなるわけだけど、そうではなくて、世間では情報量が大きいようになっているのがあるのだから、そちらのほうを優先させるのがよい。世間の中にも、政権与党の結論をよしとする人もいるだろうけど、そうではない人もまた少なからずいるわけだから、その声を受け入れられればのぞましい。

 政権与党による、情報量の小さいあり方は、すでに結論をもってしまっているものだけど、これは小さな物語と言えそうだ。その小さな物語は、大きな情報量の中の部分集合であるだろう。政権与党による部分集合としての小さな物語が正しいとは限らない。部分集合としての小さな物語を含んでいる大きな情報量へと目を向けて行くのがのぞましい。大きな情報量へと目を向けて行くことで、そうでないよりも理解が深まって行く。一つの言明(テーゼ)だけでなくて、その反対となる言明(アンチ・テーゼ)があるとすると、その二つをつき合わせて見ることができる。