ふつうにまじめに目の前の仕事にとり組んでいる。省庁で働いているのはそうした人たちであり、財務省もまた同じである。それなのに、世間や報道機関(や与党)から犯罪者のごとくに見なされてしまっている。
省庁にいる役人の人たちを善人だと見なすのなら、性善説になる。性善説として見るのがふさわしいものなのかどうかは、一概には言えそうにない。役人の人たちが善人だというのは、必ずしもたしかな前提とはいえず、ちがう前提もとることができる。性悪説で見るのがいることもあるだろう。
何ごとにも表があれば、裏もある。裏の見かたによると、省庁の官僚が食べてゆくために、国民は税金を払わされているということだ。官僚が食べてゆくために国民から収奪するための仕組みが税金だという。それがすべてだというわけではないだろうから、一面にすぎないものではあるだろうけど、少なくともそういった一面があることはたしかだろう。
国民(の一部)のガス抜きのために、財務省の役人が証人喚問されて、やり玉に挙げられているのだろうか。かりにそうであるとしても、ガス抜きには全然なっていなくて、むしろガスがさらにたまってしまったのがある。ガス抜きではなくガスためのようになってしまったところがある。
ガスは不満であり、どういった不満であるのかを見なければならない。不満の感情が、憤(いきどお)りとなり、それが私憤なのか公憤なのかが問題だ。私憤であれば公のことがらとは必ずしも結びつけられないが、公憤であるのならあるていどの正当さをもつ。公憤をもち、それを表にあらわすのは、必要であることが少なくない。まちがったものであることもあるから、できるだけ慎重に見てゆくことがいるものではあるけど。
どういったことで不満のガスがたまってしまっているかがあり、そのうちの、どういったことでという点を見てゆくことがいる。これこれこうだからというのがあるとして、その理由(argument)というのがそこまでおかしくはないものであるのなら、無視されるのがふさわしいものではない。理由をもとにして議論をすることができるものだろう。ガスがたまっているから議論ができない、というわけでは必ずしもないものである。
ガスである不満の感情があるとして、それが何へ向けた感情なのか、というのを見ることができる。感情は感情であるとして、それを切り分けるのもできるかもしれないが、そうではなくて、何へ向けた感情なのかの、何へという点がどうなのかというのがある。何へということで、その対象がそれなりにのぞましいことであるのなら、その対象へ向けられた感情もまた必ずしものぞましくないことではない。
感情によるのかよらないのか、ということだと、二元論になってしまう。それを避けるのだとすると、かりに感情によっているのだとしても、それとともに冷静さみたいなものをもつことができ、それができればメタ認知をもつことができる。感情によっているから駄目かというとそうとばかりはいえず、熱と冷をともに二つ持てればよさそうだ。ちょっと関係はないかもしれないけど、詩人で批評家の T・S・エリオットは、人間の会話は極度に圧縮されて高揚したとき詩になる、と言っているそうだ。文豪のゲーテは、詩と真実ということを言っているという。
参照文献:『小学校社会科の教科書で、政治の基礎知識をいっきに身につける』佐藤優、井戸まさえ。