民族を細分化(分節化)することができそうだ

 安倍晋三首相は、総理として、日本を代表している。日本をよしとしない中国や韓国などがいて、首相はそこと戦っている。首相をよしとするのは、日本をよしとすることにほかならない。首相をよしとしないことは、日本をよしとしないことであり、中国や韓国の肩をもつことになり、けしからんことである。

 民族というのは、つくりごとなわけだから、首相が日本の民族を代表しているというのが言えるのかはいぶかしい。首相が日本の民族を代表しているというのは、大きすぎる話であり、大きな物語であり支配の物語である。そうした大きな物語や支配の物語は通用するとは見なしづらい。

 大きいのではなくて、小さい物語として見なすことができる。首相が日本の民族を代表しているとすると大きすぎることになるので、それを小さくするのがあればよい。一人の人間が一つの民族だとすることができる。一人一民族であり、その民族による訴えがある。表現があり主張がある。何かへの反抗(プロテスト)の精神の表出がある。

 民族というのはフォークであり、フォークソングはプロテストソング(反抗による歌)でもあるという。国家という単位ではなくて、一人の人間の単位による民族(一人の民族)の反抗の訴えというのがあってもよい。一人の人間よりも国家のほうが優先されるというのは必ずしも言えないものだろう。国家を本質とするのだとしても、実存主義をとるのであれば、その本質よりも実存のほうが先立つ。同一の民族としての国家があるとしても、その同一さは同調(同化)圧力によるのだとすれば、それへの反抗があってもよい。画一さへの反抗である。