捕まった人の言うこと(証言)が信用できないのなら、それを逆用することもできてしまうから、危ないかもしれない

 傷害や、婦女暴行や、詐欺などで捕まる。傷害で捕まった人は、暴力性を疑われてもしかたがないし、婦女暴行で捕まった人は、異常性欲を疑われてもしかたがない。詐欺で捕まった人は、言葉を疑われてもしかたがなく、当人の証言はとても信用できないと見なすのが自然だ。そうしたツイートを見かけた。

 なにか悪いことをしたとして捕まった人は、疑われてもしかたがないということだけど、捕まっただけなのであれば、起訴されて裁判にかけられるかどうかはまだわからない。起訴されて裁判にかけられたとしても、そこで完ぺきに正しい判決が下されるとはかぎらない。裁判官といえども人間のすることなので、まちがうことがある。

 捕まった人は、疑われてもしかたがないというのは、捕まったことが前提となっているけど、その前提は確かなものとは必ずしも言えそうにない。捕まったから悪いことをしたとは必ずしも言い切れないのがあるし、人をだましたから本当のことを言わないともかぎらない。

 それぞれの具体例によってちがうものだろうから、一般としてこうだとはちょっと断定できづらいものだろう。関係によっているのもあり、どういう状況に置かれていたのかも無視できそうにない。実体として捕まった人を見るのがいついかなるさいにも正しい見かただとは言い切れないのがある。関係や状況をふくめて見ることがいるのがある。

 裁判にかけられて判決が出ていないのであれば、詐欺をしたとして捕まった人であっても、ほんとうに詐欺をしたのかどうかはまだわからないのだから、詐欺をしていないで捕まってしまっていることもある。詐欺をしていないのにもかかわらず捕まってしまっているかもしれないのは、目だちづらいものではあるが、ないがしろにすることはできそうにない。権力者であれば、あるていど疑いの目で見るのがいるものだけど、一般人であれば、疑わしきは被告人の利益にするのがよいものだろう。

 詐欺をしたとして捕まった人は、必ずしも詐欺をしたとはかぎらないのがあるので、詐欺をしていない人であるかもしれない。ほんとうは詐欺をしていない人なのであれば、詐欺をした人だとして見なすのはまちがいである。詐欺をしたであろうとされる人は、詐欺をした人だとは言い切れないのだから、詐欺をしたのにちがいないとして見なすのはふさわしくない。詐欺をしたであろうとされる人と、詐欺をした人とは、似て非なるものである。正反対であることがある。

 かりに詐欺をした人であっても、その人が言っている証言を信用することができないかといえば、そうとは言い切れそうにない。詐欺をした人だからその証言を信用できないというのは、この発言者の言うことは信用できないとするものであるけど、発言者と証言を切り離すことができる。同じ証言であっても、発言者がちがえばそれが信用されたり信用されなかったりするのはちょっとおかしい。これは、二人以上の人間がいて、同じ証言をするという想定によるものだから、仮定の話ではあるのだけど、そのうえで、証言は同じなのだから、(発言者はカッコに入れたうえで)証言がどうなのかというふうに見て行くことができるものだろう。