忖度をしたり、忖度させたりするのが目的なわけではないだろうし、その手段がのぞましいとも言い切れそうにない(必ずしも適切ではない手段である)

 官僚が政治家に忖度するのが民主主義である。こうした意見があった。これははたして正しいのだろうかというと、ちょっといぶかしい気がしてしまう(せん越ではあるが)。民主主義というのは、もっとちがったものでとらえられるものなのではないかという気がする。官僚が政治家に忖度しさえすれば民主主義になるわけではないだろう。官僚が政治家に忖度しなければ民主主義は成り立たないとも見なしづらい。

 一と口に政治家といっても、与党の政治家もいれば野党の政治家もいる。国民の相対の多数から選ばれたのが与党の政治家なわけだけど、野党の政治家もいるのだから、その人たちへ忖度しないのであれば、政治家に忖度することには(厳密にいうと)ならない。与党の政治家に忖度するのだとして、では野党の政治家にはいっさい忖度しなくてもよいのだろうか。

 官僚が政治家に忖度するというさいに、その忖度の語は、よいものとしてとらえるのではなく、悪いものとしてとらえることができる。忖度している状態が、よいものだとは必ずしも見なせそうにない。現に、忖度する(した)ことによって、悪いことである政治の不正がおきてしまっていると見られている。忖度をしたことで政治の不正がおきてしまったのは、忖度が悪いことだからなのではないだろうか。絶対に悪いというわけではないにしても、腐敗や退廃がおきかねないものだというのがある。

 忖度をしているのか、それとも忖度をしていないのかの、線引きがいまひとつよく分からない。悪いことがおきてしまったのだとして、それは忖度をしたからそれがおきたのか、それとも忖度をしなかったからそれがおきたのか、どちらでとらえるのがよりふさわしいものなのだろう。忖度をしたことと、悪いことがおきたこととは、原因と結果というふうに確かに結びつけられるものなのかが定かではない。忖度をしなかったから悪いことがおきたのだ、というふうにもできるかもしれない。

 忖度をしているのか、それともしていないのかは、解釈が関わってくるので、一つの見かたには決めがたいのがある。忖度をしたのだと見なすにしても、それは一つの説明のしかたというのにとどまっている。忖度をしたのにせよ、しなかったのにせよ、ある行動をしたのだとすれば、その行動を結果だとして、どうしてその行動をしたのかという原因を見て行くことができる。忖度をしなければその行動をしなかったというのは、一つの解釈であり説明のしかたにすぎず、忖度をしなかったけどその行動をした、ということもできるかもしれない。色々な原因や要求があって、ある行動にいたったのだとすれば、単一な原因にはよっていない。

 忖度をしたのかどうかというのは、動機に関わっている。理由としてあげられるものである。それとは別に、結果がどうなのかというのがある。結果があくまでもいちばん大事なのだという点に立てば、忖度をしたのかどうかというのはそれほどの重みをもつことだとはいえそうにない。忖度をしようがしまいが、結果がよければよいのだし、結果が悪ければ悪いものである。結果だけを重んじるのは偏った見かたではあるかもしれないが、無視はできないところである。