とかげのしっぽ切りはまずいとして、頭をとりかえるだけでよしとするのもまたまずいのはあるかもしれないが、頭かくして尻かくさずとなってしまっているのもある

 事件を倒閣運動で終わらせてはいけない。政権の不正としてとり沙汰されている事件について、識者の人がそのようなことを言っていた。この意見では、倒閣運動で終わらせてはいけないということだけど、倒閣運動であってはならないということなのか、それとも倒閣運動だけでは十分ではないということなのかが、いまひとつはっきりとしない。

 倒閣運動であってはならないというのであれば、それにはちょっと個人としては賛同できそうにない。倒閣運動だけでは十分ではないというのであれば、それについてはうなずけるものである。十分ではないとはいっても、倒閣運動だけでとりあえずは十分だとする人がいたとしても、その人がまちがっているとは言えそうにないし、そうした人がいてもさしつかえがないものではある。すべての人がそうしたふうであるわけではないものだろう。

 政権の不正としてとり沙汰されている森◯学園の問題では、朝日新聞が公文書の改ざんをスクープしたから表ざたになったわけであり、それがなければ政権はずっと隠し通しつづけるつもりだったのはほぼ明らかである。朝日新聞のスクープがあったことで、はじめて表ざたになり、日の目を見ることになって知ることができるようになった。不正が日の目を見ずに、闇にほうむられてしまうところだったのがあるのだから、それをかんがみれば、裏で何が行なわれているのかわかったものではない。

 政権は、自分たちが悪いのではなく、財務省が悪いとすることにやっきになっているが、これは性急な一般化や単純化をしているものであり、結果をすぐに出そうとしすぎている。政権の益になるような結果をすぐに求めてしまっているのは、不正の解明の妨げになるものである。政権は、自分たちに益になるような結果をとるのではなく、不正の解明の妨げになるようなことをつつしむのがあるとよい。

 不正の解明の妨げになるようなことを政権がしてしまっている。自分たちが権力の座にこれからもいつづけようとしているためである。権力の座に自分たちがいつづけないとならない、とすら思っているかもしれない。権力の座に自分たちがこれからもいつづけないとならないというのはおかしいわけだけど、そうであったとしても、不正の解明の妨げをするようであってはならないのがある。全面としてすすんで協力するようでないとならない。

 政権が、自分たちから不正の解明へ向けて全面としてすすんで協力するのではなく、非協力になってしまっている。非協力になっているのは、政権が組織として腐敗していて、自浄作用を失っていることをあらわす。組織として腐敗していて自浄作用を失っているのだから、できるだけすみやかに政権を他にゆずらなければならない。それでちまたで倒閣運動がおきているのだというふうに見なすことができる。すべての人ではなく、そういう人がいるということではあるけど。

 倒閣運動で終わらせてはいけないというのは正論ではあるだろうけど、そもそもなぜ倒閣運動をしなければならないのかということができる。その理由として、政権が不正の解明に非協力であり、妨げをしてしまっているのがある。不正の全容を解明するためにも、倒閣運動をしなければならないことになってしまっていそうだ。

 いろいろな意見があるものだろうけど、政権が組織として腐敗してはいず、自浄作用をもっているのだと見なすのは、個人としてはちょっととることができそうにない。もし腐敗してはいなくて、自浄作用をもっているのだとすれば、うみを出しきろうとするはずであり、自分たちから喜んで解明に全面として協力するはずである。しぶることはないものだろう。しぶってしまっているから、いつまでたってもあらましがはっきりとしてこないで、時間と費用がいたずらにかかってしまっている。

 政権が(自分たちで)よいとか悪いとか、または財務省がよいとか悪いとか、はじめから結論を決めつけてしまわないで、先入見をできるだけ払しょくするか、もしくはいくつかの先入見(仮説)によるようにして、一つだけによらないようにするのがよい。あいつらが悪いとして、結論をすぐに決めつけることでとり沙汰されている事件を見るのであれば、独断と偏見によってしまっているので、政権は自由主義を手放してしまったのだと言わざるをえない。自由主義として、いろいろな視点がもてるのがあるとすると、視点を一つに固定せずに、いろいろと持ち替えられたほうがよさそうだ。