呼び捨てにしたほうは問題がないとするにしても、されたほうはそうではないのではないか

 役人を辞めたとたんに、かつての部下を呼び捨てで呼ぶ。かつての部下を呼び捨てで呼ぶことは印象操作にあたり、不当に悪い印象を与えてしまうものである。財務相のこうしたふるまいにたいして、批判が投げかけられている。それについて、その指摘は当たらないと政府は返している。財務相は、辞める前から部下を呼び捨てで呼んでいたのであり、辞めた直後にも引きつづいてそうしたのにすぎない。何ら問題はないものであるという。

 政府は、財務相が辞めた部下を呼び捨てで呼ぶことについて、何ら問題のあることではないとしているけど、はたしてそうだろうかという気がしてくるのはたしかだ。財務相のふるまいには少なからぬ問題があるのではないかという気がしてくる。部下のものを公衆の面前でどうどうと呼び捨てにするのは、一貫してずっとやっていたことではないのだから、自然ではなく響く。唐突であり、不自然である。

 親しき仲にも礼儀ありということで、部下のものを呼び捨てにするのではなくて、役職の名前を下につけるなどをするような心づかいはいるものだろう。それがないと、面子を傷つけることになるのがあり、神経を使えていないことになる。小さいことではあるけど、軽んじてしまってよいものだとは言えそうにない。

 もともと、公衆の面前において、財務相は部下のものを役職の名前を下につけて呼んでいたのがある。部下のものが辞めたとたんに公の場で呼び捨てにするのはおかしい。冷たいしうちである。義理がなくなったから、自分の本音をぶちまけるといったようなものだ。高い地位の役職に現についている人であっても、地位や役職は実体ではないものだし、人為によってつくられたものにすぎない。終身のものではなく、一時的についているものであるのがほとんどだ。組織や役職を離れれば、ただの人になるのはみんな同じものだろう。

 財務相が辞めた役人を呼び捨てにしたのは、ただの人になってしまったからなのがあるのだとしたら、そういうふうにするのではなくて、逆にただの人にこそ配慮がなされればよい。役人を辞めてただの人になったからあしざまに呼び捨てで呼んだのだとすると、それはのぞましいことではない。ただの人(自由の身)になったことで、組織の拘束がなくなり、何をしでかすかわからないという財務相の不安感のようなものがあるのではないかと勘ぐることもできる。かわいさ余って憎さ百倍のようなのがあり、かつての従順だったかわいい部下が、役人を辞めたとたんに反動で憎さ百倍みたいになってしまい、まえの部下の名前を呼び捨てで呼ぶことにつながったのがあるのかもしれない。