発言をしたことを有言とすると、それが実行されていないとすれば、覚悟をもってはいなかったことになり、発言もまちがっていたのではないか、というふうに見ることも一つにはできそうだ

 私や妻が関与していたとすれば、まちがいなく総理大臣も国会議員も辞める。首相がこのように述べたことについて、ほめられはすれど、批判される意味がわからない、と与党の議員は言う。やましいことがあれば国会議員を辞めるという覚悟にほかならないものであり、政治家として肝に銘じておくべきことである。その覚悟はほめられてしかるべきものだということである。

 自分や妻が、とり沙汰されていることに関与していたら、総理大臣や国会議員を辞める。いぜんに首相はこの発言をしたわけだけど、これはたんに覚悟を述べたものではないのだから、ほめられるべきものとは言えそうにない。たんに覚悟を述べたのだとしても、政治家であれば誰しもが肝に銘じておくべきことなわけだから、当然のことであるし、こうした覚悟をもっていないほうがおかしい。

 関与していたら辞めるとの首相の発言は、大きな危険をともなうものであり、その危険のうら返しとしての利益をとりに行ったものである。大きな利益をとるために、それにともなう大きな危険をかえりみずに、ふみこんでいってしまった。危険さを過小評価してしまったのである。

 関与していたら辞めるという発言は、ふみこみすぎているものであり、あとで修正するなり撤回するなりを早めにしておけばよかったのではないか。修正も撤回もせずに、そのままで行ってしまったために、大きな危険がずっとついて回ることになった。教条(ドグマ)を持ちつづけることになった。その教条は、自分が発言したことにより、自分でつくり上げてしまったものである。

 首相の発言によってつくられた教条と現実があるとして、現実ではなくて教条が優先されるようになった。教条と現実とのあいだにずれがあるとして、現実ではなくて教条のほうが優先されてとられる。教条に現実を合わせようとするような無理なことが行なわれる。教条と現実とのあいだのかい離やずれは小さくはならず、大きくなっていってしまった。

 危険性が大きいかわりに利益も大きいのが首相のいぜんの発言だったので、それによって断絶がおきることになった。不回帰点(ポイント・オブ・ノーリターン)が形づくられた。回帰することができなくなってしまったのである。あと戻りができない。回帰することができないことから、無理をすることになり、本来は必要のなかった数々の犠牲が生み出されてしまった。教条によって合理をおし進めたために、無理をしてしまうことになり、無実の人の犠牲を生んでしまう。これは中立の見かたではなく、偏っているのがあるかもしれず、一つの見かたであるにすぎないものではあるが、こうしたのがあるとすると、ほめられた覚悟であり発言だったのかというと、ちょっとそれは言えそうにない。