かりに現実の国際社会が、国家どうしの国益をめぐる戦いの場なのだとしても、そこから(じかに)価値を導き出すことはできそうにない(is と ought を分けることができそうだ)

 友だちに国境はない。これは映画のちびまる子ちゃんで使われている宣伝文句であり、映画会社が出したいくつかの候補の中から(協賛している)文部科学省が決めたものだという。この映画には文科省が関わっているのがあるので、教育の意味あいがこめられているものだけど、使われている宣伝文句にたいする批判が一部から投げかけられている。友だちに国境はない、とは何ごとだ、というわけである。

 批判を投げかけているのは、自由民主党赤池誠章議員である。友だちに国境はないなんて言っていたらいけないのだという。友だちに国境はないのよりも、国家への意識がより優先されないとならない。赤池議員の中での優先順位は、そのようになっているようである。

 国際社会は国家どうしの国益をめぐる戦いの場である。その場において、友だちに国境はないなんて言っているのでは駄目だということである。赤池議員はこのように言っているけど、この見なし方はつり合いのとれたものとはいえず、偏りがあるものだと見なせる。友だちに国境はないの宣伝文句に見られるような、国際主義(コスモポリタニズム)は頭からしりぞけられるものではなくて、そうした見かたをとることができるものだし、現実にそうしたことが部分としては成り立っているのもたしかだ。

 国家への意識は何よりも優先されなければならないものかというと、そうとは言い切れそうにない。国家への意識が何よりも優先されたことで、国民一人ひとりに多大なる不幸をまねいた例が、歴史をふり返ってみるとある。国家の公が何よりも優先されてしまうことで、個人である私がおしつぶされてしまう。国家の公よりも、個人である私の自由が優先されたほうがよい。個人の自由(消極の自由)は現実にあるものだけど、国家の公による自由(積極の自由)は幻想であり、共同幻想であるにすぎない。国家という全体は不真実である。

 国家どうしの国益をめぐる戦いの場が国際社会ということだけど、これであると世界の富の総和が固定されてしまっている見かたとなる。固定和(fixed-pie)の見かたである。和が固定しているとそれを奪い合うことになりかねないけど、そうではなくて、和の総量が増えてゆくこともあるし、分け合うことのよさもあるだろう。

 グローバル化によって、人と物とお金と情報が世界を行きかう。一つの国家が最高価値であることはできなくなってしまっている。国家が客観の価値をもつとはいえず、主観の価値をもつにすぎないものである。国家主義による意識を一方的に植えつけようとするのはあまりのぞましいことではない。どの角度から見ても国家主義による意識を植えつけさせるのがよいこととはいえそうにないし、一つの角度から見てそれが言えるかもしれないといったことにすぎないものだろう。大きな物語や支配による物語とはできづらい。

 国家が国民にたいして必ずしもよいことをするわけではないのだから、国家への意識や忠誠をもつようにさせるのは普遍化できないものである。国家にたいする批判をするのがないとならない。国家があることによって、国民に益となることもあるわけだけど、そうでないことも少なくない。国家があることで、国内にいる万人がみな結果において平等になるわけではないし、経済などの不平等が温存されてしまう。国家に反するものである敵などは、国家によってつくり出されるものである。国家に反するものである敵などが、対象化されて、つくられてしまうのである。

 友だちに国境はないというのは、友だちを外から迎え入れることであるので、よいことである。すすんでやるべきことだと言えそうだ。日本国内にいる、同じ日本人どうしである同胞として友だちになるのは、そんなに珍しいことではない。なのでそんなに高い価値があることとは言えそうにない。外から異邦者を友だちとして迎え入れることができる方がより価値がある。絶対にそうしたのをしたほうがよいというわけではなくて、相対的なものにすぎないのはたしかだから、人それぞれではある。あくまでも、試しにやってみるのはどうかといったことであるのにすぎないのはたしかである。

 日本の国内でも、すべての人がみな仲よくして友だちになれるわけではない。国内にいる同胞の者の中で、この人は日本をおとしめているということで、売国だとか反日だとかとしてすぐに敵だと見なしてしまわないで、友だちに国境はない、みたいなあり方がなるべくとれればよいような気がする。理想ではあるものだけど。