忖度したというのが記録されていないから忖度はなかったというのは、前提として確かなものとは言いがたい(忖度したことが記録されていてしかるべきだとは言えそうにない)

 中身を見てもらうとわかるように、忖度したという形跡はない。忖度をしたならそういう記述があってもしかるべきである。首相は国会の答弁において、このように述べていた。過去の忖度の余地はない、と首相はしている。

 忖度をするときというのは、何か記録に残しておくようなことはあまりない。記録に残さずに行なうことが多そうである。忖度したことを記録に残しておくことがあれば、それはけっこう珍しいことだろう。記録に残しておかないことが、忖度をする(させる)ことのかい(やりがい)があることであり、醍醐味なのではないかという気がする。

 忖度をしたことを記録に残しておくのは、忖度をするにあたっての必要条件(原因)でもないし十分条件(原因)でもない。記録に残さないほうが忖度をそつなく行なえる。忖度をした記録が残っていないからといって、忖度が行なわれなかったということにはなりづらい。

 過去の忖度の余地はない、と首相は言っているけど、忖度の余地がないのは、忖度をすることがいらないほど透明性が高いことによる。そこまで透明性が高いあり方であるとはいえそうにない。上下関係がなくて、透明性がきわめて高ければ、忖度はあまりおきようがないだろう。忖度があまりおきようがないのは、権力に人が居すわっているかぎり、理想にすぎないものであり、現実にはそうなりづらい。従わせる者と従う者となっていれば、そのあいだで忖度がおきる余地はある。

 忖度をしたならそういう記述があってしかるべきだということだけど、これはどうなんだろう。忖度をしたのなら、それを記述しておくべきだという決まりがあるわけではない。忖度をしたとしても、それを記述しておかなければならないという決まりはないのだから、記述しなかったとしても罰せられるものではない。忖度をしたことを記述するのは、具体の義務でもないし努力義務でもないと言えそうだ。

 忖度をしてもそれを記述しておくなということを忖度したのがあるかもしれない。それをきちんと忖度した結果として、忖度をしたことの記述が残っていないのである。記述を残しておくのではなく、残さないでおくほうに忖度がはたらくと見ることができる。忖度は顕在(けんざい)ではなく潜在におきるものだと言えそうだ。忖度したことを記述して残しておくのなら、顕在になることになり、忖度の余地があるのをあらわす。忖度した結果として忖度したことの記述を残すのかもしれないし、そうではないとしても、忖度したからこそ、それをしたことの記述を残すことになる。顕在か潜在かのちがいはあるけど、忖度が無いわけではない。