上からの演繹によるのではなく、下からの帰納によるのがふさわしそうだ

 真実を知りたいという思いである。安倍晋三首相の夫人である昭恵氏は、フェイスブックの書きこみにおいて、このように述べていたという。昭恵氏は、フェイスブックの書きこみにおいて、真実を知りたい思いであると言っている。これをそのまま受けとるとすると、昭恵氏は真実を知りたいと思っているのだろう。

 昭恵氏は真実を知りたいと思っていると言っているが、それは真実なのだろうか。真実を知るという点においては、昭恵氏が真実を知りたいと思っていると言っていることが、真実であるとは必ずしも限られない。人が言っていることをそのままうのみにすることが、真実につながるとは限らないのがある。人が言っていることとはちがうことが真実であるかもしれない。人が言っていることに真実があるとは必ずしも言えそうにない。

 真実を知りたいという思いだというのが、真実であると見なすこともできる。真実であると見なすのだとすれば、真実を知りたいという思いは真実であるとできる。真実を知るのは、首相や夫人について疑惑としてとり沙汰されている、森友学園の問題のことがさしあたってはある。この真実を見て行くさいに、哲学の現象学で言われる、事象そのものへ、のかけ声がある。

 森友学園の問題の事象そのものへせまる。事象そのものについては、誰にもわからないことではある。そこにせまって行くさいに、真実(アレーテイア)があるとして、それは忘却の否定なのだという。ギリシア語でレーテ(レーテイア)は忘却をさしていて、アは否定をあらわしているということで、忘却の否定となる。忘却するのではなくて、想起するように努める。

 記録として残っていることによって、想起するのをうながす。記録として残っていないとしても、記憶をほりおこす。状況証拠ではあるかもしれないが、さまざまな過去の痕跡が残っているはずである。その痕跡をたどって行くようにする。真実そのものではないにせよ、その近似値が浮かび上がってくる。近似値を浮かび上がらせるのは、真実を知ろうとすることであり、残されている状況証拠などの痕跡を十全に生かすのがあるとよい。どこに痕跡が残されていて、どうやって痕跡を残した当人を追跡することができるのかを、さぐって行く。その活動がいかんなく行なわれるようであればよい。邪魔だてされないようであればよい。邪魔だてされなければされないほど、解明の尽力に協力すればするほど、真実の近似値に近づけそうである。