はたらくことのよさには、生存者バイアスがはたらいていそうだ

 週休七日だったら、幸せか。自由民主党の渡邉美樹議員は、国会においてこのように述べていた。週休七日だったら幸せなはずがない、というわけだろう。休みは少なければ少ないほどよく、はたらくことが多ければ多いほどよいことだ、としていそうだ。

 週休七日というのは極論であり、これを持ち出すのは、わら人形攻撃となってしまう。休むのが少なければ少ないほどよくて、はたらくのが多ければ多いほどよいとは言えそうにない。哲学者のアリストテレスは中庸をよしとしたそうだけど、休みとはたらくのはどちらか一方だけによるのではなくて、そのあいだの中庸であることで、のぞましい自己実現がなせるものだろう。

 はたらいているときは忙しい。忙しいときにはじっくりと改めてものごとをとらえることができづらい。休んでいるときには、改めてものごとをとらえる機会を持ちやすいのがある。週休七日だったら幸せかどうかというのについて、休んでいるときにそれを改めて見ればよさそうである。人間の幸せについて、休んでいるときにそれを改めて見る。忙しくはたらいているときには、なかなかそうした機会は持ちづらい。

 客観として、はたらくことが幸せにつながるとは見なしづらい。主観によるものだろう。実在としては、はたらくことで幸せになっている人もいるだろうけど、そうした人たちばかりではなく、逆に不幸になっている人も少なからずいるものだろう。じっさいには、はたらくことで幸せになっている人もいるし、そうでない人もいるのだから、人それぞれによってちがうということになる。

 はたらくことの範ちゅうの中に、さまざまな価値のものがある。人々の役に立つものばかりではなく、いらないものをつくっていることもあるから、いらないものなのであれば価値は必ずしも高くはない。農業などの第一次産業はいるものだとしても、それ以外のものであれば、絶対に欠かせないものというわけではないものが多い。地球の資源の浪費につながっているものもある。資源を無駄に浪費してまでも、はたらくことがよいことなのかといえば、そうは言えそうにないのはたしかである。

 地球の環境を少なからず壊してしまう。環境の破壊となってしまうのだとまずい。はたらくのは、自然にはたらきかけることであり、自然を支配することである。外の自然を支配するのとともに、人間の心である内なる自然も支配する。外と内の自然を支配することになる。お金の損得による計算の理性が主としてはたらく。その理性は道具化して退廃する。生気による質と意味を失う。目的と手段が逆転して、手段が自己目的化する。

 はたらくことはよいことだとしてしまうと、はたらくことをよいものだとして仕立てあげてしまうことになる。よいものだとして仕立てあげてしまうことはのぞましいこととは言えそうにない。隠されている否定の契機があり、それが抹消されたり隠ぺいされたりしている。賃労働者が超過の搾取をされたり抑圧されたりする。それらが隠されることによって、はたらくことがよいことだということになる。大きな物語や支配の物語となるものである。そういった物語が通用しづらくなっているのが今の状況だといえそうだ。

 はたらくことはよいことだというのは一つの理法であるけど、その理法は絶対化することができづらいものである。はたらくことの利というのがあるとして、その利だけをとることはできず、害もくっついてくる。利と害がともにあるあり方である。利が大きいと見なすのは、その認識によって利を受けることになる者による見かただと察せられる。害が大きいとするのは、それによって害を受けることになる者による見かただともできる。認識は、自分が受ける利益によってちがってきてしまうのがあるので、客観のものだとは見なしづらい。