文科省は、中学校を、陰謀勢力として見てしまっているのであれば、陰謀理論におちいっているので、それはのぞましいことではない

 中学校の授業に、外から講師をまねく。講師としてまねかれたのは、前の文部科学省事務次官だった役人の前川喜平氏である。前川氏は、役人だったさいに、政権与党におもねらなかったため、権力から不当ににらまれてしまい、今でもそれはつづいてしまっているようだ。

 前川氏を講師としてまねいた中学校に向けて、文科省は質問状をおくった。どういったことで前川氏を講師としてまねいたのかをたずねるものである。質問は、ですます調で一見するとていねいではあるけど、力関係にものを言わせているために、解答するのをこばむことはできづらい。一五個も質問が投げかけられていて、一つひとつにたいして、具体にとか詳細にとか明確に答えよとして、解答者が逃げられないように質問をしている。いやらしい問いかただという印象だ。

 虚心に質問をするのならまだしも、中学校がよからぬ魂胆をもっているとか、前川氏がよからぬ人物だとかいうふうにして、質問の中で決めつけてしまっているのがうかがえる。質問が、修辞疑問文になっていて、世界観を強いたり、一つの方向へ誘導したりするようになっている。

 文科省は、中学校にたいして、あたかも有罪推定の前提のようにして見てしまっている。悪い魂胆をもっているのにちがいないというふうに見なす。悪く見なすものである、有罪推定の前提のように見るのではなくて、無罪推定として見るのがふさわしい。疑わしきは罰せずだ。権力者以外であれば、なるべくそのように見なすのがよい。

 疑わしいというのにおいて、政権をおとしめようとするのがけしからんと文科省はしていそうだ。それを確かめたかったのだろう。政権をおとしめることについては、いまの政権をおとしめるのとは別に、時の政権をうかつに信じてはならないのがある。一般論としていえば、時の政権が必ずしも正しいことをするわけではないのだから、それを教えるのは教育としてそれほどまちがったことだとは言えそうにない。いまの政権を少しも批判してはならないというのは虚偽意識(イデオロギー)である。学校は、いかに中立をよそおうとしても、国家のイデオロギー装置の一つであるのはたしかである。

 文科相は、中学校に質問状を送ったことについて、法に反してはいない、と述べている。法に反してはいないとは言いがたく、中学校の教育への公権力による不当な介入であり干渉だと見られている。文科相が言うように、(百歩ゆずって)かりに法に反していないのだとしても、それでよいわけではない。力関係としては、文科省は強者であり、中学校は弱者であるから、強者に都合のよい法のあり方であってはまずい。弱者ができるだけおもんばかられるようであるのがよい。

 中学校に質問状を送ったことにおいて、文科省は、認知の歪みがはたらいてしまっている。中学校が悪い企みをもっているのにちがいない、として見てしまっている。文科省によるこの見かたはいただけない。悪い魂胆をもっていなくて、教育のためにやったことであるのなら、そこまでとがめ立てされるべきではない。文科省は自分たちの認知の歪みによって、中学校にたいして動機論の見かたをはたらかせており、まちがった見かたにつながってしまっていそうだ。

 結果として、子どもの教育としてよいことが行なわれたのであれば、それでよいわけだし、時の政権や文科省がいちいちしゃしゃり出て干渉してくるのがのぞましいことだとはちょっと思えないのがある。教育のために行なわれることであれば、なるべく文科省は許容するべきであるし、問題ありとして不当にしめつけるのではなく、問題なし(ノー・プロブレム)とする度量があるほうが、社会の全体としての効用は高くなりそうだ。