空転するかもしれないやっかいさは、権威主義(専制主義)のあり方からきていそうだ

 内閣の総辞職をせまる。首相が辞任するのをうったえる。不正の疑惑の責任をとるためである。首相(と夫人)が不正に関わった疑いがあるのであれば、それを自分で検証するのはできづらい。どうしても自分には甘くなってしまうからである。自分に厳しくすることはできづらい。

 責任者である長がそのまま地位に居座りつづけていたのでは、責任をとりづらいのがある。できるだけ早急に地位を他にゆずり、自分以外の第三者に検証をゆだねる。十分に検証をしたうえで、再発の防止をはかる。権力者が自分(たち)について、責任はないとしたり、不正はないとしたりして弁明するのは、自己言及の矛盾とならざるをえない。無関係の第三者による追求がいるだろう。

 一強多弱であるなかで、一強である首相が今その地位を降りてしまうと、国の政治が空転してしまう。空転してしまうのはまずいことだから、首相はそのまま今の地位に居つづけてほしい。空転してしまうよりかは、そうならない方がましだというわけである。

 首相が地位を降りることで、国の政治が空転してしまう。それを懸念するのは、まったくの荒唐無稽な見かただとはいえそうにない。一理あることはたしかである。空転してしまわないようにするために、首相に今の地位に居つづけてもらう。これは保存をするということなわけだけど、この保存に正当性ははたしてあるものかどうかがいささかの疑問である。

 文学では、カーニヴァル理論というのがあるという。冬の王というのがいて、それが春(夏)を呼びこむのを妨げてしまっている。冬の王が、春のおとずれを邪魔している。春を呼びこむために、冬の王を倒す。冬の王を倒すことで、春がおとずれる。ここでは、冬の王が倒されることになり、殺される王の主題がとられる。冬の王への戴冠(たいかん)と、冬の王からの奪冠の劇だ。

 今までの秩序を転じさせることによって、混沌を呼びこむ。混沌がもたらされることで、宇宙が更新される。歴史が更新される。混沌は秩序を生む元となるものである。秩序をよしとして、混沌をうとましいものと見なすとして、その見かたを転じさせる。混沌をよしとして、秩序をうとましいものと見なす。まったくすべて混沌になってしまうのだとまずいけど、秩序よりも混沌のほうがより根源にあるものなのがある。秩序は区別により、その区別は差別による。差別は不合理であり、よくないものであることから、秩序もまた少なからずよくないところを抱えもつ。

 首相が地位にとどまることで、秩序が保存されることになるわけだけど、それははたしてよいことなのだろうか。首相が地位を降りることで、国の政治が空転してしまうのが懸念されるけど、その懸念とは別に、首相が地位にとどまりつづけることでおきてくるまずいところもありそうだ。首相が地位にとどまりつづけることで、今までの秩序が保存される。その保存に正当性があるのかを見て行くことができる。

 首相が地位にとどまりつづければ、国の政治が空転するのを避けられるかもしれない。空転するのを避けられるのはあるだろうけど、適正な政治が行なわれる保証はない。一強多弱なのがあるのだから、一強にものを言わせてものごとをおし進めてゆくあり方がとられるのは目に見えている。一強のあり方にものを言わせてものごとをおし進めてゆくあり方をとっていって、それがまちがった方へ進んでいってしまうのを、いったい誰が止められるのだろう。国の政治を空転させないのをもってしてよしとするのでは、止めようがない。

 国の政治が空転してしまうのはまずいことはたしかだろうけど、それとは別に、空転していない今(今まで)のあり方において、まずいところがあるのではないかという気がする。空転していない今(今まで)のあり方に悪いところがないとは言い切れない。空転しないとしても、少なからず悪いところがあるはずである。悪いところがあるというのは、秩序の保存の正当性が疑わしいということだ。秩序を保存する意味を失っていはしないかという気がする。

 秩序を保存する意味を失っていると言ってしまうと、かなり極論になってしまうかもしれないが、秩序を保存することの(正ではなく)負の陰のところが、とても深刻なものになってしまっている。その負の陰を隠したうえで、秩序の保存と維持がとられている。あたかも負の陰は無いことになってしまっているのを、国の政治が空転していないことだと見なす。そうではなくて、負の陰に当たるものにもっと光が当てられてもよいはずであり、そこに言及して言挙(ことあ)げするのがあってもよいはずだ。負の陰にたいする言及や言挙げは、社会の中の呪われた部分に目を向けて行くことであり、有用性の回路から外れてみることである。