名誉は善もしくは美であるとすると、真をとれなくなってしまう(偽による名誉と、真による不名誉がある)

 さんざん、名誉を傷つけた。さんざん、さんざん、私と妻の名誉を傷つけている。安倍晋三首相は、国会の答弁において、このようなことを述べていた。ここで言っている名誉というのははたして何なのだろう、とふと気になった。

 首相においては、おそらく名誉というものがそうとうに高い効用をもつ。効用としての優先順位(序数)がかなり高いところにある。名誉がもっとも高いところにあり、その下に事実があるのだとしたら、あまりのぞましいことではないことになる。名誉のために事実をねじ曲げてしまうことがおきてくるからだ。

 事実ではないことを言うことで、名誉が傷つく。事実ではないことを言うから、名誉を傷つける。名誉が傷つくのは、必ずしもそれらに限られるものではない。事実を言うことで名誉が傷つくこともある。事実を言われたら名誉が傷つく。名誉が傷つかないようにするためには、事実が言われてはまずい。事実よりも名誉をとってしまうと、こうしたことになりかねないのがある。

 名誉をとることによって、名誉が傷つく。名誉をあまりにも重んじすぎることで、かえって名誉が傷ついてしまう。結果として名誉が傷ついてしまうのであれば、いったい何のために名誉を重んじたのだろうということになる。名誉を傷つけるために名誉を重んじたことになってしまう。名誉の弁証法であり、名誉の逆理(逆説)がはたらく。名誉をひどく重んじすぎなければ、名誉は傷つかなかったかもしれない。ほどほどにやっていれば、ほどほどの名誉を保てることが見こめる。

 名誉は利益であるとして、その利益を得るには、危険をおかさないとならない。虎穴に入らずんば虎児を得ず、と言われている。名誉である利益を得ようとして、そのさいに危険をおかすことになり、不名誉をこうむる。名誉を得ようとして虎穴に入らなければ、不名誉をこうむらなかったかもしれない。

 名誉が傷つくことを悪いことだとするのは、一神教のあり方によるかもしれない。名誉が傷ついたとしても、必ずしも悪いことではないとするのは、多神教のあり方といえそうだ。多神教では、捨てる神あればひろう神ありだとされる。名誉が傷つくのは捨てる神によるわけだが、そのほかにひろう神がいればひろってもらうことが見こめる。空間において、捨てる神とひろう神が並存している。

 すごく名誉が傷つけられれば残念なことではあるけど、すぐに何とかするのではなくて、ほうっておくという手もないではない。一神教ではなくて多神教のあり方によるものではあるけど、(時をつかさどる)時の氏神さまに何とかしてもらう、というものである。時が解決してくれる。時は変化をもたらす。このあり方は非科学のあり方であり、科学によるものではないのはたしかである。

 なぜ名誉が傷ついてしまい、不名誉になるのかというと、意思疎通がうまく行かないことが一つにはある。渋滞の現象がおきる。渋滞学の西成活裕氏によると、万物(あらゆるもの)は渋滞する、ということだ。相手がこちらを誤解しているのかもしれないし、自分が自分を誤解しているのかもしれない。自分が自分を誤解しているおそれは完全には払しょくすることはできない。自分が自分を誤解しているのだとすれば、相手の言うことが合っているとして、相手の言うことを認めることができれば、渋滞するのはやわらぐ。

 名誉を傷つけるのは悪い、としてしまうのはときにまずい。名誉を傷つけるのは悪い、というのではなくて、名誉を傷つけるようなことがときにおきる、というのがある。名誉が傷つくのは結果であり、その原因を見て行くことができる。

 名誉を傷つけようとする意図や動機を相手がもっているのかは定かではない。意図や動機をもっていると決めつけてしまうのであればそれは早まっている。意図や動機をもっているとして決めつけてしまうのはのぞましいことではない。結果として名誉が傷つけられたかどうかを改めて見ることもあるとよい。かりに傷つけられたとしても、そうしようと思ってしたものではないのなら、必ずしもよくないことであるとは言い切れないことはたしかである。

 傷のつかない名誉はおそらく無い。傷のつかない名誉があるとしたらそれはちょっとおかしい。神さまのようなものである。傷のつく名誉のほうが自然であるだろう。名誉に傷がつくのは必ずしも不名誉なことではない。人の名誉に傷をつけるのは、その必要性があり、許容できるものだとすれば、少しくらいは受け入れられるべきである。いかなるさいにも人の名誉を少しも傷つけてはならない、ということはない。

 名誉にすごく大きな価値を見いだすのは、その人の自由だろう。大きな価値を見いだすのはその人の主観によるのであり、客観ではない。誰がどう見ても大きな価値をもっているということではない。名誉をすごく軽んじている人もいるだろう。その人がまちがっているとは必ずしも言えそうにない。ほどほどの名誉というくらいがちょうどよいと言えるのもある。つり合いのとれた中庸であるのがよさそうだ。名誉と不名誉の二つのあいだくらいである。

 名誉を傷つけられた、といううったえは、ほんとうに名誉を傷つけられたことをうったえているものなのだろうか。必ずしもそうとは言えないものである。名誉を傷つける意図や動機を相手がもっていないのであれば、相手にたいして、名誉が傷つけられた、とうったえるのは必ずしも適したことではない。名誉がどうかということについて論じ合っているのではないのなら、名誉を持ち出すのは適したこととは言えそうにない。論じ合いの中で、名誉が傷つけられたとうったえるのは、名誉が傷つけられたことをうったえることには必ずしもならない。論点ずらしであり、くん製にしんの虚偽のおそれがある。論点をずらしたりくん製にしんの虚偽をしたりするのは、名誉ある者の行為であるとはちょっと言いがたい。