強硬外交は、対話を引き出すための必要条件(原因)でもないし十分条件(原因)でもなさそうだ

 北朝鮮が対話の意思を示す。それは、日本の北朝鮮にたいする強硬外交の成果だと、日本政府は言っている。しかし、日本の強硬外交の成果として、北朝鮮が対話に応じるようになったとはちょっと見なしがたい。日本が北朝鮮にたいして強硬外交をしていたのにもかかわらず、北朝鮮は対話に応じるようになった。または、日本の強硬外交とはかかわりなく、北朝鮮は対話に応じるようになった。

 強硬外交は、対話をうながすものだとは言いがたい。対話というのは言葉による象徴のやりとりであり、それをうながすには、直接に言葉による象徴のやりとりをすればよい。柔軟なやり方をするのがふさわしいものである。強硬なふうにすることはいりそうにない。

 強硬外交というのは、そもそも対話をうながしてゆくものではないのだから、それによって対話が成り立ったとして成果にしてしまうのはどうなのだろう。強硬外交が前にあり、対話に応じるようになったのが後ろにあるとして、前と後ろのあいだにある中間を見てゆくことができる。あいだの中間に色々なことがあったのであれば、その中のどれかによって後ろの結果が導かれたと推しはかれる。または、たんに偶然によることもないではない。時間が経っただけなのによるのかもしれない。

 強硬なふうでないとならないということはないはずである。そうしないと対話をうながすことができないということはない。色々な切り口や手段があるはずであり、強硬という一つの手段だけによるしかないものではなさそうだ。単数だと、ほかの手が選べない。手段は複数とれるものであるとして、その中からふさわしいものを選べればよい。

 力による圧をかけるのが強硬の手段であるとして、圧をかければ(圧をかけられたものが)爆発してしまうおそれがある。圧力をかけられるほど、かけられたものが爆発を引きおこす危険さが生じてくる。爆発というと物騒な響きがあるけど、疎外されたものは、窮鼠猫をかむといったようにして、やけをおこして狂ってしまうことがないではない。

 外交における努力とは、いかに強硬な手をとらないようにするのかであるとできる。強硬の語は、強いと硬いというものだけど、これを弱いと柔らかいにするのが外交の努力だと言えそうだ。強く硬くしてしまうと、お互いにぶつかり合う。お互いに敵対し合っていることになる。これを非敵対にもってゆくのが外交努力であるだろう。生やさしいことではないのはたしかだろうけど。

 弱く柔らかくするよりも、強く硬くしたほうが、頼もしく目にうつるから、受けはよいかもしれない。外交で受けのよい手を用いるのは、大衆迎合主義(ポピュリズム)になる。大衆の感情にうったえるやり方である。悪いものにはこらしめをとして、強く硬いあり方でのぞむほうが、感情にうったえることができて、受けはよい。強硬によるあり方は、受けがよいという作用はあるわけだけど、反作用(副作用)があるともいわれている。

 外交では、自分の国と相手の国とをともに認め合うあり方が理想であるとされる。こちらが向こうをこらしめるものではない。こちらが向こうをこらしめるのだと、ともに認め合うあり方にはならない。そんな生やさしいことを言っていては、自分の国が危ないではないか、ということも言えるかもしれない。たしかにそれは否定することができないものではあるけど、それについては色々と文脈をもちかえることができればよい。

 自分の国による文脈と、相手の国による文脈があるとして、それが大きな摩擦となるのが、強硬のあり方だといえる。大きな摩擦になってしまうのはあるとして、それだけではなくて、できるだけ摩擦を減らしてゆくようにするのが、外交の努力だと言えそうだ。摩擦を大きくすることで、人々の感情にうったえることはできるわけだけど、それは長い目で見てよいこととは言えそうにない。となりにある国とは、長くつき合ってゆかざるをえないのだから、その将来の影をくみ入れるのがふさわしい。

 お互いの文脈のずれにより、摩擦が大きいのは、短期としては利益がある。しかし中期や長期では利益にはならない。中期や長期では、文脈の摩擦ができるだけ小さいほうが利益がある。摩擦ができるだけ小さくなるような方へもって行ければよい。摩擦が大きいのは、感情にうったえるあり方だ。自己欺まんの自尊心の感情にうったえるのではなくて、理性によるありかたをとれれば、摩擦を減らして小さくしてゆくことにつながりそうである。