最初は小さな問題だったのが大きなものになったのは、危機が派生しているためなのがある(政権が危機にきちんと対面して対応しているとは言いがたい)

 最初はほんとうに小さな事件からはじまったことである。それが人死にを出してしまった。この問題は、本当に人が死ぬほどの問題ではない。政権についての疑惑がとり沙汰されているなかで、その疑惑に関わっていたとされる公職の人が自殺をしてしまったという。そのことについて、テレビの出演者が語っていたことである。

 人が死ぬほどの問題ではないのにもかかわらず、人が亡くなってしまった。この発言では、人が死ぬほどの問題ではないのなら、人が死ななくてもよいはずだとしているわけだろう。そのように言うのではなくて、たとえどのような問題であったとしても、人が死ぬべき必要はまったくない、というのがよいのではないか。人が死ななくてもよいのは、何か条件がつくものではなくて、無条件のものだと言えそうだ。問題の大きさと人が死ぬことの不要さとは、とくに相関するものとは言えそうにない。

 理想としてはそのように言うことができるけど、じっさいにはそうはなっていないのも否めない。政治や経済の事件では、人が死んでしまうことがあるという。事件に政治がからむと死ぬ人が出てしまいやすい。会社が倒産するさいに、負債が数億円以上にのぼると、人の死がおきてしまうものだという。

 人間には自然的権利があるのであり、死ななければならないことはない。死ななければならないと人に思わせてしまうのであれば、その人が置かれている状況や環境がおかしいおそれがある。いかなる状況や環境であれ、個人がもっている自然的権利がはく奪されることはない。それを奪おうとするものにたいして抵抗することができる。

 野党が与党の疑惑を追求しさえしなければ、人が死なずにすんだ。こうした見なし方をとることができるかもしれないが、人を死なせるために野党は与党の疑惑を追求しているわけではない。人を死なせるためにやっているわけではなく、人は死なないでいてほしいのがあり、そうしたなかで与党の疑惑を追求している。人を死なせたいという意図や動機をもっているわけではないだろう。

 結果として人が死んでしまったのはあるわけだけど、野党が与党の疑惑を追求することと、人が死んでしまったこととを、分けて見ることができる。その二つはそれぞれ別のこととしてとらえられる。二つをいっしょに結びつけることもできるわけだけど、切り離して見ることもできるのがある。できごととしては、一つのできごとではなくて二つのできごとなのだから、関連させて見るのがふさわしいとは言い切れそうにない。

 人が死んでしまったのがあるとして、それを結果とすることができる。その原因は何かをさぐるさいに、ほんとうの原因はわからないというのがある。原因はこれだとすることはなかなかできづらい。はっきりとしないところがある。

 はっきりとしないところがあると言っても、野党が与党の疑惑を追求するなかでおきたことなのだから、はっきりとしているではないか、ということができるかもしれない。その点については、野党が与党の疑惑を追求するなかで、人が死んでしまうことがあってはならないことはたしかである。あってはならないことがおきてしまったのは、あるべきではないことがおきてしまったのであり、野党が与党の疑惑を追求するさいに人が死んでしまわないようでなければならない。

 人が死んでしまわないようにするためには、可傷性(バルネラビリティ)や被悪玉化(スケープゴート)として犠牲になりやすい人が生じないようにすることがいる。弱い立場に置かれている人ほど犠牲になってしまいやすい。犠牲になってしまうことはあってはならないことであり、そうしたのがおきないようにすることと、野党が与党の疑惑を追求することとが、両立するようであればのぞましい。どちらか一方をとるというのだというのでは、あれかこれかの話になってしまう。まず原理として、野党や報道機関が与党の疑惑を追求するのは行なわれなくてはならない。それがないのであれば原理なきあり方になってしまう。

 罪を憎んで人を憎まずというのがあるのだから、人を憎んでいるのではなく、罪を憎んでいるとすることができる。人は死ななくてもよいのは当然であり、それだからといって、罪はきちんと見て行かないとならない。権力チェックとして、権力において不正が行なわれたおそれがあるのなら、それを見てゆくことに権力者はなるべく協力しなければならない。権力者を人として憎んでいるのではなく、罪があるのだとしたらそれを憎むのはかまわないだろう。権力者は強者であり、弱者のふりをするのはいかがなものだろうか。

 強者である権力者(または権力に近いもの)が嘘をつくことで、その犠牲となるのは弱者である。この嘘は罪であり許してはならないものであるという気がする。まったく嘘をつくなとは言えないかもしれないが、肝心なところで本当のことを言わないのだと、本当のことが明らかにならないし、示しがつかなくなることはたしかだ。弱い者をおもんばかる気があるのなら、本当のことを語るべきである。人に聞かれる前に自分から語ったらどうだろうか。そうすれば、ほんらい犠牲になる必要のまったくない無実の弱者が救われることになる(なった)。