国家が一人ひとりの人間をきっちりと包摂するべきであり、差別や排斥をなくせればよさそうだ(人間が人間を人間に当たらずとするのは人間が決めたことにすぎない)

 人はきっちりと一つの国家に帰属しないと、人間にはならない。他国を理解することもできない。育鵬社による公民の教科書には、こうした内容が記されているそうだ。これは作家の曽野綾子氏の言っていることを引用したものだという。

 人はきっちりと一つの国家に帰属しないと人間にはならないということだけど、これは正しい見解だとは受けとりづらい。きっちりと一つの国家に帰属するとはいったいどういうことなのだろう。きっちりという形容詞をどうとらえたらよいのかが定かではない。きっちりと国家に帰属していない人は人間にはならなくなってしまう。そんなおかしな話はない。

 人間であるというのは、何か条件がつくものではないものだろう。きっちりと国家に帰属しているかぎりで人間であるというのでは、条件がついてしまっている。そうではなくて、人間というのは一つの目的であるのだから、それ自体として尊重されるものである。何かのための手段なのではない。

 近代においては、国家というのは人々の契約によって成り立つ。人々が契約を結ぶことで国家権力が外に叩き出される。社会契約説ではこのような見かたをとることができる。この説によると、国家ができあがる前に人間がいるとできるから、人間のほうが先行していると見なせる。国家が先行しているのではない。

 社会契約説は本当のことではなく、説明として言われていることだから、それを差し引かないとならないことはたしかである。性悪説に立ち、人間どうしが終わりなき争いをする。万人が争い合う。内乱集団であるビヒモスのありさまはのぞましくないため、それをなくすために国家であるリヴァイアサンがとられる。完全に争いがなくなるわけではなくて、リヴァイアサンとビヒモスの対立は国家の中に残存するという。リヴァイアサンという巨獣が、ビヒモスという獣を抑えつけているのが国家であるそうだ。

 情念がビヒモスであり、内戦をあらわす。理性がリヴァイアサンであり、情念であるビヒモスを抑えこむ。理性によって原始の契約が結ばれる。理性が情念を抑えこむのは、契約があるからである。理性により契約を結ぶことが合理であるとなる。

 情念によるビヒモスは本音に当たり、理性によるリヴァイアサンは義理や建て前に当たるかもしれない。世の中は建て前で動いてゆくものではあるけど、しだいに本音との隔たりがおきてくる。理性が現実とずれてくると、情念に打ち勝てなくなり、情念による反逆を許す。理性が退化したり、野蛮に転化したりすることもないではない。理性は道具化する。退廃(頽落)を引きおこす。

 リヴァイアサン海獣であり、神であり巨獣であるとされる。国家は一つのリヴァイアサンであり、リヴァイアサンどうしが争い合うのが国際関係である。国家どうしが争い合うのは社会契約説でいう自然状態なので、平和の手段によって争いのない社会状態にすることができればのぞましい。社会契約説はつくりごとであるとしても、国家どうしが争い合う自然状態は現実にあるものだとできるし、自然状態は現実のことだからしかたないとすることはできない。死をいとわない国家どうしの争い合いは、自己欺まんの自尊心によるものであり不毛なものである。

 リヴァイアサンであるのが国家だけど、それは絶対のものではない。地方分権による地域主義からすると、国家はリヴァイアサンではなくビヒモスに当たるのだという。国家はリヴァイアサンでありかつビヒモスでもあるので、両義性をもつことになる。両義性をもつものは排除されたものであり、契約により国家権力が外に叩き出されたことをあらわす。それが上方に排除されることがあるし、下方に排除されることもある。

 国家が先行していると見なすと、国家を本質であるとすることになる。本質は存在に先立つというものである。これは本質主義による見かたであり、本質の語に国家の語を代入することが可能だ。それとはちがう見かたとして、実存主義がある。実存は本質に先立つというものだ。国家よりも(人間である)実存のほうが先立っている。

 育鵬社の公民の教科書に引用されているものの中で、曽野氏は地球市民というのを否定しているようだ。それは現実としてありえないものだという。それぞれのちがいを認め合い、そのちがいを超えて受け入れる。相手が困っていたら助けの手を差し伸べる。そうしたのがインターナショナルということにほかならないという。

 地球市民は現実としてありえないということだけど、はたしてそういうふうに言えるものだろうか。たとえ現実にありえないからといって価値がないとは言い切れないのがある。現実にありえなくても理想としてかかげることはできる。現実にはまだありえないからこそ理想として掲げる意味があるとできる。

 地球を一つの全体とすると、一つの国はその部分に当たる。部分どうしはそれぞれにつながり合っているものであり、部分が単独としてあるわけではない。部分は単独として意味があるわけではない。部分とは別に、全体はどうなのかといった視点がもてればよいのがある。全体といっても、それを見わたすことはできづらいし、できているわけでもないのだけど、地球という全体の中の一部分として人為で区分けされたのが国家だろう。その国家を絶対化せずに相対化するために、地球市民による超国家(トランスナショナル)の見かたがあってもよさそうだ。

 参照した文献:『リヴァイアサン長尾龍一 『ケルゼンの周辺』長尾龍一 『資本主義』今村仁司編 『トランスモダンの作法』今村仁司他。