権力についての疑惑をとり上げるのは、まったくのでっち上げであってはまずいものだけど、臆することはいりそうにない(謙虚さと自信があればよい)

 政権と省庁への疑惑を、新聞社がとり上げた。疑惑をとり上げたのは朝日新聞社である。朝日新聞へ向けて、疑惑をとり上げたからには、立証する責任がある、とする声が投げかけられている。

 この意見では、疑惑をとり上げた朝日新聞が(投げ返さないとならない)球を持っていることになる。しかしそうではなくて、球を持っているのは政権と省庁であると言えそうだ。少なくとも、朝日新聞が球を持っていて、政権と省庁が球を持っていない、ということにはなりづらい。それぞれが球を持っているが、比重としては政権と省庁に球の重みがかかっている。

 立証する責任は、一方だけにあるのではなくて、双方にあるのだとできれば、一方向ではなく双方向になる。球の投げ合いとして双方向にできればよい。疑惑をとり上げた朝日新聞だけではなく、政府と省庁も球を持っているのだから、投げ返さないとならない。どういった倫理をもっていて、何をのぞましいこととして何をのぞましくないこととしているのかを示す。のぞましくないことをしたおそれがあるのなら、それを払しょくするように努める。ごまかしたり隠したり時間かせぎをしたりしないようにするのがよい。

 政権と省庁への疑惑について、朝日新聞がとり上げたわけだけど、これをとり上げなかったとしたらどうだろう。とり上げなかったこともないではない。もしとり上げなかったとしたら、疑惑が見すごされてしまったことになる。

 場合分けをしてみたらという話にすぎないのはあるのだけど、政権と省庁が疑惑をもたれていることをじっさいにやったとして、それをどこの新聞社もとり上げなかったことが想定できる。朝日新聞をはじめ、その他の新聞社がどこも疑惑をとり上げない。どこもとり上げないのだから、政権と省庁はまんまと不正を隠しおおせたことになる。これは大変にけしからんことであるのはまちがいない。

 疑惑を持たれていることが、本当のことであるという確証は持てないわけだけど、疑惑が本当のことであり、かつそれが見すごされてしまう、というのはもっともまずいことである。不正が行なわれたことになり、それが表に発覚せずにすむ。そうであるよりかは、明るみになったほうがのぞましい。明るみになるようにすることはとても意義があることである。それをやったかもしれないのが朝日新聞であると言えそうだ。

 政権や省庁が疑惑としてとり上げられている不正を行なっていたとして、それが明るみに出ずに、まんまと隠しおおせたとする。知られずにすんだとするのであれば、応報律として正しくないことであると言わざるをえない。公において不正を行なったのであれば、応報を受けないとならないのがある。矯正(つり合い)の正義である。罪があるとして、罰がないのだとつり合いがとれていない。応報によるつり合いは、そうあるべきこととしての当為(ゾルレン)であると言えそうだ。

 不正をまちがいなくはたらいたのだとは言い切れないのはあるかもしれないが、いまの政権や省庁であれば、小さな不正は行なってもかまわないということだと、示しがつかない。二重基準であるのはのぞましくはない。公(国家)と私(民間人)や、かつてと今とこれからの政権において、二重基準でないようにすることがいる。小さな不正を行なってしまうのがあるとして、それでどうして大きな正を行なうことができるのだろう。小さくない不正であれば、なおさらのことである。小さめの不正であるのだとしても、一見するとつけたり(剰余)のディティールのところに大きな意味があらわれることがあるから、おろそかにしないようであればよい。