因果関係については、政権に問題がある(あった)とする見かたも成り立ちそうだ(一つの見かたとして)

 公の文書を改ざんしたと見られている。この改ざんは公文書偽造に当たるようだ。それを行なったのは省庁の官僚の人たちであるとされる。官僚の人たちは、はたして能動で文書を改ざんしたのか、それとも受動でさせられたのかが、はっきりとしていない。

 改ざんした文書は、官僚の人たちの手によるものだとして、それによって政権を転ぷくさせることができる。官僚の人たちは、文書を改ざんすることによって、そのときの政権を倒せるというわけである。たしかにそうしたおそれもないではないものと言えそうだ。そのおそれはないではないだろうけど、あくまでも可能性の一つというのにとどまっているのもたしかである。

 政権は改ざんされた文書について責任がないのかといえば、そうとは言い切れそうにない。責任についていえば、それがあるとするにいたる因果関係はまったくない、とする意見もあるようだ。政権に責任はなく、悪くもなく、非もないということである。この意見では、因果関係はまったくないとしているけど、まったくないと言い切ってしまうことはできそうにない。

 文書が改ざんされたのは、一つの結果であるとできる。その結果がおきたのはなぜなのかとして、原因をさぐって行くことがいる。方法論として、結果についての原因を探って行ければよい。これを見て行くにさいしては、問題意識がどうなのかによって見かたが変わってしまうのがあるから、一つの問題意識によるだけではなくて、いくつもの問題意識によって見ることがいる。一つの問題意識によってとらえるだけだと、それがまちがっているととらえ方もまた誤ってしまう。

 政権にまったく非がなく、悪くないとするのは、被害者だと言っていることになる。被害者であるとするのであれば、加害者は官僚の人たちということになる。この被害者と加害者のとらえ方は、色々と変えて見ることができるのもたしかである。加害者であるとしているのが、レッテル張りによっているおそれがある。いちど加害者のレッテルが張られると、それがまちがったものであったとしても、なかなかとり払いづらい。権力チェックであればあるていど(試しに)レッテルを張ることがいるものではある。レッテルを張るというと語へいがあるかもしれないが、権力については性善説ではなく性悪説で見ることがあるていどはないとならない。

 政権は、自分たちのことを被害者であるとするのだと、自分たちに原因はまったくないとすることになる。そして官僚の人たちにすべての原因を押しつけることになる。こうした原因の当てはめ方が、ふさわしいものなのかどうかは定かではない。政権は自分たちを自己防衛したいから、自分たちを被害者だと見なしているおそれが低くない。これは自己欺まんであり、問題の解決にはなっていないものである。きちんと問題を解決したいのであれば、自分たちにもまた少なからぬ原因があったとして、非を認めるのをいとわないようにしないとならない。

 かりに政権が被害者であるのだとしても、だからといってまったく責任を負っていないわけではない。とり沙汰されていることについて、何の関わりもなく、当事者ではないのであれば、責任はそれほどないかもしれないが、当事者として関わっていて、責任のある立場(地位)にいるのであれば、責任をとることがいる。責任をもって事態の解明にできるかぎりの力を注いで行くようにしないとならない。

 政権は自分たちを被害者だとしたいのかもしれないが、それが許されるかどうかが定かではないし、かりに許されるのだとしても、事態の解明についてはできるかぎりの力を注がないとならないのは変わらない。そうしないことには、誰が加害者で誰が被害者なのかはわからないままになってしまう。うやむやにするのはのぞましいこととは言えそうにない。