どの水準の議論であるのかといった、想定している議論における水準の高低のちがいがありそうだ(日常のではない、きちんとした水準の議論をするのであれば、議論の基本の技術をきちんとふまえていないとならない)

 議論をしましょう。首相はそのように言う。この発言では、議論をしましょうと言っているわけだから、そのまま受けとると、議論をしようといっているのはたしかである。議論をしようと言っているのだから、それをそのまま受けとるのが正しいのかというと、必ずしもそうとは言い切れそうにない。

 ほんとうは議論をしたくはないのにもかかわらず、議論をしようと言っているおそれがある。このように見なすのは、首相の言っていることをまともに受けとってはいないので、首相のことを否定してしまっていることになると受けとられるかもしれない。そう受けとられるおそれはあるけど、ふさわしい判断をするためには、権力者が言っていることをいちおうカッコに入れなければならない。

 議論をしたいという意図をもっているから、議論をしようという発言をするのだとは、必ずしも言えないのがある。議論をしたくはないのにもかかわらず、口では議論をしようと言うことは可能である。頭のなかにある意図と、口で言うこととは、必ずしも合うものではない。その二つが合っていないこともある。合っていないのであれば、口で言うこととは違う意図をもっているとすることで、意図をおしはかることができる。そうした見解をもつことができる。

 議論をしようということで、議論をやり合うのだとしても、それが形だけのものなのであれば、生きたものであるとは言いがたい。議論とは、それほど易しいものではないだろう。それは言われるまでもなく、すでにわかっていることかもしれないので、改めて確かめるといったことになる。

 議論をしようというのは、そもそもの話として、議論は易しいものではない、との認識からはじめるのがよいのではないかという気がする。そんなことはわかりきったことであり、改めて言われるまでもない、というのはあるだろうけど、いちおう確かめておきたい。そもそも議論は易しいものではないとわかっているのであれば、議論をしましょうと気やすく口にはできないのではないかという見かたも成り立つ。議論をしましょうと口にして、それですぐに仲よく議論ができるほど易しくはないのではないか。

 議論をしましょうというのは、そもそも議論をしているのがあるわけだから、そこまで意味がある発言とは言えないかもしれない。議論をしましょうと口にするのとは別に、議論を評価しましょう、というふうなことが言えそうである。議論を評価することがないと、議論の中身が改められることがのぞめない。

 どういう基準をもってして評価するのかがある。そのものさしがないと、評価をすることができづらい。議論をすることはできても、適否みたいなものがないがしろになってしまう。評価することがないのだと、そのまま流れていってしまうのがある。フローのあり方である。それだとのちに積み上がって行きづらい。積み上げて行くようにするのであれば、評価をするようにして、よくない評価のものについては、それを改められればよい。そうすることで、少しずつ改められるのがのぞめる。ストックのあり方である。

 議論をしましょうとして、議論をうながすだけでは、フローのあり方がとられることになるとしても、ストックのあり方がとられる保証がない。ストックのあり方をとるようにするためには、議論をうながすだけではなくて、議論を評価することをうながすのがよい。議論の中での一つひとつの発言について、ふり返るようにする。これはどうだとかいうふうにして、ものさしに照らしてていねいに見てゆく。それで、次にはなるべくこうしようだとかいうことを省みられる。そうすれば、ストックのあり方がとりやすくなり、積み上げをすることにつなげられる。

 ふり返りをおこさせられればのぞましい。ふり返りをおこさせるには、質問をするとよいそうである。どういったことが行なわれたのかは記録に残るものであり、実証のものである。都合の悪いものが故意に抹消されないかぎりは、議事録に記録される。その実証があるとして、それにたいしてよいか悪いかを一つひとつ見て行く。悪いものは、なぜ悪いのかとして、要因をさぐってみる。どうするのがのぞましいかについてを見て行くことができる。

 議論の水準がどうなのかといった点も無視できそうにない。一と口に議論といっても、さまざまな水準のものがあるそうなのだ。その水準がかみ合っていないと、くいちがいがおきてしまう。日常のものであれば、それほどきちんとしたやり取りをすることはいりそうにない。日常のものではなくて、公のことがらについてをやり取りするのであれば、日常の感覚の延長で行なってしまうのはまずい。低く評価せざるをえないような発言はなるべくしないようにすることがいるだろう。それは日常におけるあり方であるからである。公のことがらをやり取りし合うさいにはふさわしくないと見なさざるをえない。低く評価せざるをえない発言はなるべく行なわないほうがよいものだというのがあれば、日常の水準から脱しやすくなりそうだ。