大したことがないのか、それとも大したことがあるのかの、あるなしのちがい(いまかつての時系列におけるちがいもある)

 大したことがない。そのように見なすことがある。それとは別に、大したことがあると見なすこともできる。大したことがないか、それとも大したことがあるのか、どちらなのかとなる。この二つのうちのどちらなのかというのとは別に、大したことがないのから大したことがあるになる(成る)、ということもある。大したことがないのから、大したことがあるのに、生成変化したわけだ。

 大したことがないのにもかかわらず、一部ですごく騒がれてしまっている。もしそうであるとすると、たんなるから騒ぎみたいなものである。しかしそのから騒ぎが、そうであるのではなくて、真に的を突いたものであるのを払しょくできない。大したことがあるのに一部の人が気がついて、それで騒いでいるのだ。もしそうであるとすると、大したことがないという認識がまちがっていることになる。一部ですごく騒がれているのが、から騒ぎなのではなくて、的を得ているわけだ。そうであれば、大したことではないとしているのから、大したことがある、に認識を変えられればのぞましい。政治の(権力者への)疑惑についての話では、そのように言えるのがある。

 大したことがないとする認識を持ちつづけていると、それがやがて、大したことがあるになる(成る)こともないではないわけだから、そうなってしまうと対応が後手後手になってしまうことになる。後手後手になってしまうと、対応にそうとうに手こずることになる。収拾がつきづらい。手を焼く。政権が深い危機におちいってしまいかねない。

 大したことがないのかそれとも大したことがあるのかのちがいは、外からの反応として、どれくらい人々に騒がれるかどうかによるところがある。騒ぎが大きくなれば、それを放っておくわけには行きづらい。騒ぎが大きくなった時点で、大したことがあるに成ったのをあらわす。最初のうちは、大したことがない、とするので通っていたのはあるかもしれないが、それが通らなくなることもあるわけである。大したことがないかそれともあるかは、お互いに関係しているものであり、転化や生成変化することがあると言えそうだ。たとえ大したことがないと政権が見なしたいものであっても、いちおうは大したことがあると見なして、早めにきちんとした対応をとっておければ危険さは少ない。

 大したことがないのは、東洋医学で言われる未病のようなものと見なすことができる。そのときのうちに対応がとれれば、労力はわりあいに少なくてすむ。未病はぼやのようなものだと言われる。ぼやだったものが、火の勢いが大きくなって本当の火事となってしまうと、火を消すのにそうとうに労力をかけないとならないことになる。最初のぼやのうちは、大したことがないのはたしかだけど、いちおうぼやはぼやとして、ちょっと火がついてしまっているのがあるのだから、まったく火がついていないわけではないとして、そこでしっかりとした対応をとれれば、大したことがあるのになる(成る)のを防げる。

 空間としていうと、大したことがないという派と、大したことがあるという派の、二つが併存していると見なせる。両派はせめぎ合う。その二つの派は、ともに消長することがあるとすると、大したことがないとなっていたものが、大したことがあることになる(成る)こともないではない。そうなると、時間の移り変わりがおきたことになる。いまとかつてであり方が変わったわけである。いまとかつてであり方が移り変わることがないとは言い切れそうにない。

 たとえ小さなことであっても、それを放っておくと、やがて大きなことになることがある。最初はわりあいに小さなことであったわけだが、それを放っておくことで、大きなことになったとすると、そのあいだにずっと憑在していたわけである。足あととして、痕跡が消されずに刻まれつづけているのをたどることで、元がどうなのかをあるていど再現することができるかもしれない。

 大したことがないか、それともあるかのどちらかなのかは、判断をなるべく適したものがとれればよさそうだ。大したことがないことなのに、大したことがあるとしてしまうと、適していない判断となるから、それについては気をつけないとならない。一つの文脈によるだけではなく、いくつかのものを持ち替えられればよい。そうすれば、陰謀理論におちいるのを防げる。一般の人についてはそうして気をつけることがいるけど、権力者についてであれば、厳しく見て行くことがいりそうだ。権力チェックとして批判をすることがいる。権力者が表向きで言っていることの裏を見るというのができればよい。