大英断は誇張といえそうだ

 悪いのは厚生労働省である。まちがったデータを政権に与えた。それを首相は大英断によって正した。そのように言うのは、自由民主党丸川珠代議員である。丸川議員のこの見なし方では、厚生労働省が悪いことになっているわけだけど、はたしてこれは本当のことなのだろうかというのが腑に落ちない点である。

 厚生労働省が悪いというのも一つの見なし方としてあるのだろうけど、それとはちがった別の見かたもとれる。厚生労働省が政権に与えたデータが先立っているとするのではなくて、政権による論拠が先立っているというふうにできる。この論拠とは、考えといったようなものである。政権による(あることについての)考えが先行しているのだ。

 論拠がまずあって、それにふさわしいデータがさがし求められる。ふさわしくないデータは基本として採用されない。たとえ正しいデータであっても、自分たちがやろうとしていることに都合の悪いものであれば、採用するのはおかしいし、かえって不利になってしまう。そのいっぽうで、たとえ正しくないデータであっても、自分たちがやろうとしていることに都合がよいものであれば、採用されてしまう。よくよく気をつけていないと、そうしたことがおきてしまうことがある。

 厚生労働省が主であり、政権が従であるわけではない。政権が主であり、厚生労働省が従であると見ることができる。この主と従というのは、完全に分けられるものではないかもしれないが、基本としては言えるものであるとすると、省庁よりも政権が上となるか、もしくは対等となる。省庁が上になり、政権が下になるとは考えづらい。人間の体でいうと、省庁が頭で、政権が手足となると変である。その逆だろう。頭と手足はつながったものであるから、少なくとも半分は政権も悪いのであり、省庁がすべて悪いとは言えないのがありそうだ。

 丸川議員は、首相が大英断を下して正してくれたと言っているようだけど、それだと首相が前景に出てしまい、野党が後景にしりぞく。そうではなくて、野党を前景に出さないといけないのがありそうだ。首相はどちらかというと、今回のことについては後景に当たるものだろう。野党が厳しく追求したことで、政権がやろうとしていることについての悪いところが明るみに出た。野党が何の追求もしなかったとすれば、そのまま通ってしまっていたわけである。首相の大英断は独立したものではなく、野党がきちんと批判をするかしないかにまったく従属している。

 どのようにできごとをとらえるのかは自由であるわけだけど、一つの文脈によるだけではなくて、色々と文脈を持ち替えることがあれば、より深いできごとの理解につなげられそうだ。まちがったデータを政権に与えた厚生労働省が悪い、とする文脈が持てるのはあるかもしれない。その文脈においては、まちがったデータであるのをまちがいがないものとしたことにまちがいがあるとできる。

 なぜまちがったデータであるのにもかかわらず、まちがいがないものとしてしまったまちがいが起きたのかというと、一つには、自分たちがやろうとしていたことに都合がよい(都合が悪くない)データだった、というのがありそうだ。なので採用されてしまった。データはまちがっているものだったわけだけど、それに満足したことで、政権に採用される運びになった。

 厚生労働省が与えたデータに満足してしまう前に、データが本当に正しいものなのかどうかを改めるための労力をかけるのがのぞましい。データに不備があることを確かめる過程が十分にとられていなかったとすれば、データに不備があるかどうかを確かめなかったことに不備があると言えるだろう。確かめるための十分な時間がないのかもしれないが、そうであるとしても、それだったら、データがまちがっているおそれがあるという予測くらいは多少はできそうなものだ。その予測がつかないのであれば、認知の歪みがはたらいているために、意思決定がまちがってとられることになる。

 予測がつかないのは、認知の歪みがはたらいているのがあり、それにより意思決定がまちがうことになる。データは正しいものであるというのを前提にするとしても、それはただ一つのものではなくて、場合分けをすることができる。データは正しいというのと、データは正しくないというのとに場合分けができる。データが正しいのであればよいわけだけど、それだけではなくて、データが正しくないこともある。データが正しくないこともあるわけだから、その前提をもっていないようだと、そこを他から指摘されたさいに、予測や想定をしていないというのだとまずい。確かめていないというのもまたまずい。想定外となっていたことをあらわす。データについての先見や予断が相対化されていなかったということになるだろう。