正論でないとされるものに流されないものが正論である、という論に流されないことがもしかしたら正論であることもあるかもしれない

 これまでにある、大手の既存の報道機関による論調がある。その論調に流されてしまうのではない。もち前の冷静な分析力を生かして、わかりやすい語り口で、評論活動を行なう。そうした活動における、さらなる活躍を期待したい。フジサンケイグループによる正論大賞の受賞者へ、首相はこのような言葉を贈っている。

 首相が正論大賞の受賞者に贈った言葉には、首相の思想みたいなものがあらわれているとうかがえる。大手の既存の報道機関にたいする見かたがまずあらわれている。首相は、そうした大手の既存の報道機関がとる論調を、えてして好まないのが察せられる。とりわけ首相を批判する報道機関の論調を、正しいものだとはしたくはない。

 改めて見ると、はたして正論とはいったい何なのだろうか、というのが言える。正論大賞というのは、正論だとされるものに大賞をさずけるものなのだろう。そのさいの正論とはいったい何であり、その逆の非正論や反正論とはいったい何に当たるのかがある。非正論や反正論だとされるものの逆であれば、正論を言ったことになるのだろうか。非正論や反正論とされるものも、正論とされるものも、どちらも正論ではない、というおそれもある。正論と呼べばそれが正論になるとは必ずしも言いがたい。

 たとえ正論大賞をさずけられたものであったとしても、それが必ずしも正論であるとはかぎらない。正論大賞をさずけられた人であっても、その人がいついかなるときも正論を言うとはかぎらない。人間は神さまではないので、完全な合理性をもつものではないのがある。不完全であり、限定されたものしかもってはいない。まちがわない人間はいない、というわけである。そうしてみると、正論大賞をさずけられたものが、本当の正論であるのかどうかは、完全に正しいとは言いがたい。正論であるという判断が誤っていることがある。

 正論大賞をさずけた人は、必ずしも本当の正論を見定めることができるとはかぎらず、もしかしたら正論ではないものに正論大賞をさずけてしまっているおそれがある。そのおそれを完全には払しょくできづらい。正論大賞をさずけられた人も、自分は正論大賞をさずけられるにふさわしいのだと自分を見なしているのが、もしかしたら正しくはないことがある。もっとも、正論大賞をさずけられたことについては、さずけられた人に責任があるとは言えないのはある。

 首相が言うように、大手の既存の報道機関がとる論調に、そのまま流されてしまうばかりが正しいあり方だとはいえそうにない。それはたしかではあるだろうけど、それと同時に、首相が言っていることにそのまま流されてしまうのもまたよくないことである。首相が言っているのをそのまま垂れ流すだけなのでは、報道の使命を果たしているとは言いがたい。首相が言っていることをそのまま垂れ流すのでは、流されてしまっていることになるからである。

 正論とは、正しい論ということだけど、これは正しい論を言わないものを決めつけるものではない。そのように決めつけてしまうのであれば、たとえば大手の既存の報道機関による論調は、えてして正論ではない、というふうになる。しかし、必ずしもそのように決めつけることはできないものである。正しい論を言うのは、立場によって決まるのではなくて、どのような根拠からどのような主張が導かれているのかを見ることによる。

 正論には、反証可能性がとられていないとならないのがありそうだ。もし反証可能性がとられていないのであれば、それは開かれたものとは言いがたい。閉じた物語のようなものである。たんに正論だとされているだけなのであれば、批判によって見られているのではないので、正論ではないおそれが小さくない。正論となるためには、正論ではないのではないか、という批判の目にさらされて、その目をきちんとくぐり抜けたうえで、もしかしたら正論なのかもしれない、といったようにして認められるのがよさそうだ。それでも、それは永久不変に正論であるのではなく、のちにくつがえされることがあるのが避けられそうにない。

 正論であると仕立て上げられたものは、なにか否定(反証)の契機となるものが隠ぺいされたり抹消されたりしているということができる。そこには確証による認知の歪みがはたらいていると見ることができる。たとえ正論であるとはいっても、それを受けとることにおいて、どう受けとるのかは人によって色々とちがってくる。正論が、正論であることを裏切ることが絶対にないとはいえそうにない。