成果に応じて給与が支払われるのが資本主義であるというのであれば、それは正しくはなさそうだ(成果に応じて給与が支払われるのではないのが資本主義である)

 時間で給与が支払われるのが時給である。それは社会主義ではないのか。そのような意見が投げかけられていた。資本主義社会において、そうした社会主義のようなあり方がとられているのはおかしい、というわけだろう。改めて見ると、はたしてそうなのだろうかという気がする。

 資本主義とはいっても、純粋なものというわけではない。社会主義によって社会化されたものとなっている。それで修正資本主義となって今にいたっているのがあるから、資本主義の中に社会主義のようなところがあるのだとしてもとくに不思議ではない。資本主義だけであると危険なわけだから、それが多少なりとも社会主義によって社会化されているほうが安全である。

 そうして修正資本主義となっているわけだけど、その中で、賃労働者に支払われる給与というのは、自分が労働した成果によって決まるわけではない。そうしたのがあるのだという。とりわけ日本の社会では、成果に応じて給与が支払われるようにはなっていないと言われている。

 労働者は自分の労働から切り離されてしまう。これは疎外である。そうして切り離されてしまうことで、社会からもまた切り離されてしまい、疎外となる。そのようになっているのがあるそうだ。賃労働者に給与が支払われるのにおいて、その額は、労働の再生産のためにいるだけのものとなる。労働の再生産にいる額のお金が給与として支払われるのである。ひどいものだと、その再生産すらままならないくらいの低い額のものもないではない。そうしたわけで、成果によっているのではないそうなのだ。もし成果方式によっているのであれば、成果によって給与が支払われるわけだけど、そうした方式がとられることはごくまれであるという。

 成果にたいして給与が支払われるといっても、それはどういった基準によるものなのかが定かではない。支払われた給与から逆算するかたちで、成果があるとかないとかと見なされているにすぎないのがありそうだ。たとえ給与が多く支払われているからといって、必ずしも本当に成果があるのかどうかは断定できづらい。給与が少ない(または無い)からといって、成果がないとも言い切れそうにないのがある。なぜそのようになるのかというと、成果とは価値であり、価値とは客観というよりも主観によっているためだろう。それに加えて、量にできないものは価値とは見なされづらい。計算が成り立たない。

 成果にたいして支払われる給与は、ほんとうに成果に見合ったものだとは必ずしも言えないのがある。ほんとうの成果よりもより多くもらっていたり、または逆に少なくもらっていたりすることがある。成果を上げた人がいるとしても、その人の力ではなく、まわりの環境や助力にあずかっていることがある。成果を上げていない人がいるとしても、その人の力が足りないのではなく、まわりの環境や助力にあずかれないせいかもしれない。時の運というのもあるだろう。偶然によることも少なくはない。

 成果を上げている人と、上げていない人がいるとして、それは関係によって成り立つ。そのちがいを区別する分類線は、しっかりとしたものではなく、揺らいでいるものだとも見なせる。関係によってちがいが成り立っているので、固定したものではなく、変動することがあるものだというふうにできる。成果を上げたり上げなかったりすることのちがいは、実体によるものではない。ていどのちがいである。成果を上げない人がいることで、成果を上げる人が成り立つ。

 いま成果が上がっているのではないとしても、これから先に上がることもあるわけだから、いま成果が上がっていないことをもってして低い評価をつけるのがふさわしいことなのかどうかは一概には言えない。すぐに成果を上げなければならないものばかりではないし、すぐに成果を上げられるものばかりでもない。すぐに成果を上げなかったり上げられなかったりするからといって、価値がないわけでは必ずしもない。短期で見るか長期で見るかのちがいである。短期で成果が上がったからといって、それに意味があるとは必ずしも言えないのがある。あとからふり返ってみて意味づけされるわけだから、そのさいに意味がないと見なされることがある。

 成果を上げるのは結果であるけど、結果だけによるのではなく、過程を見ることもできる。過程がよくないのにもかかわらず成果を上げているのであれば、それがよいことなのだとは言い切れない。たとえ成果が上がらないのだとしても、過程に意味があるということがある。過程を大事にすることには意味があるだろう。過程に意味があるのであれば、次につながることが見こめる。そこはあまり評価されづらいところである。

 成果を上げている人がいるとして、その人が本質として成果を上げる人であるのかは一概には言えない。成果を上げていない人にしても同じである。非本質として成果を上げたり上げなかったりするのがありそうだ。ある根拠からすると、成果を上げる人がいるだろうし、上げない人がいることになる。その根拠は絶対のものとは言いがたい。

 賃労働者が労働をするさいに、時間の質と量についてを見ることができそうだ。時間の質として、自分から働くというよりも、資本家によって働かせられるのが大きいのだから、その質はよいとはいえず、悪いものだろう。多かれ少なかれ、成果から切り離されてしまい、疎外がおきるわけである。そうして(労働者が)成果から切り離されないことには、資本家は利益を上げづらい。

 時間の質とともに、量もまたないがしろにすることができづらい。時間の量としては、資本家は、賃労働者を一日の時間いっぱいぎりぎりまで働かせる権利を買いとっている。時間いっぱいぎりぎりという歯止めがないのであれば、それが制約なきものにすらなりかねない。そうして制約なきものになってしまっている事例も少なくないというのだから、時間の量に歯止めがきかなくなってしまっているのがある。止め役がいないようなあんばいだ。

 成果に応じて給与を払うようにするのだから、時間は関係がない。成果を上げることが主となる。働き方改革は、そのようなものだというのである。本当にそのようなものであるのかどうかはいぶかしいものであるのはたしかだ。賃労働者は、そもそも労働の成果を自分のものにすることができないで、それが資本家のものになってしまう。それを無視できそうにない。

 資本主義においては、構造として、労働者本位にはなりづらいのがある。それを少しでも労働者本位にするのだといっても、そのかけ声は現実化するものとはちょっと思いづらい。資本主義というくらいだから、どうしても資本の論理で動いて行く。その動きの中においては、経済の都合によって個人は分断されてしまい、切断されるので、孤立しやすくなる。労働することや生きることの意味を失いやすい。社会との紐帯を失いがちになる。労働や生が無意味になるわけであり、危険な環境となる。反動により、同質で画一な個による群集の現象などがおきてしまう。そうはいっても、すべての人がそうしたようになるわけではないのはたしかである。

 資本主義と社会主義があるとして、そのいずれにおいても、労働に大きな価値が置かれている(た)。その点については共通していたわけである。現実においては、社会主義は成り立たなくなったのがあり、大きな失敗をもたらしたとされる。そのいっぽうで、資本主義はどうかというと、これもまたみんなに益になるような成功を果たしたとは言いがたい。深刻な負の問題を抱えてしまっている。市場原理は、一見すると等しいだけのものを交換するようでありながら、その内実ははなはだしい格差と不平等を生む。それに加えて、労働に大きな価値が置かれているのがある。

 労働への大きな価値の置かれ方は、虚偽意識(イデオロギー)によるものだと見なすことができる。労働は人間を自由にはしない。労働は人間を自由にするとしたのは、ナチスによる強制収容所のかけ声であったという。労働は隷属によるものである。生を膨らませるのではなく、すり減らして削ってしまうものであるだろう。そうではない、有意義な労働のあり方もあるにはあるだろうけど、それは近代(現代)では成り立ちづらく、前近代のようなあり方のものと言えそうだ。

 働き方改革も悪くはないわけだけど、働くことについての価値の置かれ方改革があってもよい。働くことには価値があるとする、自明性の厚い殻を破ってみるのはどうだろうか。働くことの価値が上げ底になっている。それは、労働観や労働表象(イメージ)として、労働がよいものと見なされていることによるのが一つにはある。みんなががんばって働くことで、資本主義にそぐうことになり、拡大再生産がとられる。それは経済だけにとどまらず、軍事の拡大にもつながって行く。経済と軍事は、お互いに手と手をとり合っている。そうしたあり方をできるだけ改められればよい。経済は人間を物としてあつかい、物象化する。軍事は人間を殺害する生産力(殺害生産力)を増強する。これらのことが人間に幸せをもたらすものなのかどうかには疑問符がつく。