改革の手だてにおける作用と反作用(副作用)や、順接と逆接がありそうだ(角を矯めて牛を殺すこともないではない)

 働き方改革は、働かせ方改革ともいわれる。働かせ方改悪ともいわれる。こうしたやゆが投げかけられているのは、必ずしもいわれのないこととはいえそうにない。働き方改革をやろうとしているわけだけど、その呼び名を少しずらすことによってやゆするのは、必ずしも改悪とはいえないのがある。

 働き方改革の呼び名において、それは記号表現(シニフィアン)である。その記号表現がどのような記号内容(シニフィエ)をもっているのかを見てゆくことがいる。どういった意味をもっているのかを見るようにして、具体としてどんなことを指し示しているのかを見ないとならない。働き方に問題があるとして、それはなぜなのかや、どういったことでそれがおきているのかを、有機によるのや包括や全体によることで見てゆく。そのようにできればよい。

 働き方改革をやろうとすることにおいては、論点のとり方として、色々なものがあるとは思うんだけど、一つには、現実に(一定以上の)労働者に構造的暴力がふるわれてしまっている、というのをとることができる。構造的暴力は不正義である。不当な超過の搾取や差別なんかがあてはまる。この点を軽んじてしまうと、問題の発見とはなりづらい。

 現実に生じてしまっている構造的暴力や不正義があり、それを語るための正義の声が投げかけられる。その声をできるだけ受けとめるようにする。下からの声を受けとめることがほとんどなく、上から働きかけるのが主となっているようなのだと、構造的暴力や不正義がそのままになってしまうのがあり、さらにそれが深刻化してしまうことが懸念される。そうすると、さらに正義を語る必要が生じてくる、といったことになるわけだ。現実に危機があり、それにきちんと責任をもって対応がとられていない。無責任となっている。そのため危機がさらに連鎖しておきてしまっている。

 働き方改革というのが一つの大きな論点であるとして、その下に中くらいの論点や小さな論点がある。そうしたようにしてできるだけ細かく見てゆくことで、単数にならずに複数化することができる。どういった状況が現実においておきているのかを見てゆく。大状況から中くらいのものや小状況までさまざまにある。そうして少しでも個人の尊重につなげられるようなふうに改めることができればよさそうだ。