反交通や単交通ではなく、双交通または異交通による話し合いのあり方をとれればよさそうだ(篠原資明氏による交通の種類である)

 アメリカの高等学校で、銃乱射事件がおきた。それを受けて、ドナルド・トランプ大統領は、教師が武装化するのがよいとしている。およそ二割の教師が武装化すれば、銃の乱射事件はおきづらくなるという。この二割という割り合いの根拠がいまいちよくわからないのがあり、教師が武装化すればほんとうに銃の乱射事件がおきづらくなるのかどうかも不明だ。

 全米ライフル協会は、銃を持つ権利を守ることがいるとしている。銀行や宝飾店は、物理の力による襲撃を受けたときの対策がきちんととられている。しかし学校はそうなっていない。そこから、学校における教師の武装化に前向きな姿勢をもっているということである。

 全米ライフル協会の見解を改めて見てみると、銀行や宝飾店と学校をいっしょくたにするのはどうなのだろうという気がする。銀行や宝飾店は、お金や宝石という財をあつかっている。それをうばわれる危険性があるのはあらかじめ予想することができる。いっぽうで学校は何かの財をとりあつかっているわけではない。教育というサービスを生徒に提供しているだけである。なので、そこにおいては武装するのではなく非武装によるあり方がとられている方がまっとうなものだろう。武装することが正常なあり方だとは見なしづらい。

 全米ライフル協会の見解においては、銃を持つ権利を守るということで、そうした権利が自明であるとされている。そういった自明性の殻に厚く守られているあり方を、いま一度見直すことがあったらよさそうだ。銃を持つ権利は当然あるべきものであるという武装ありきの立場を、疑ってみることがいりそうである。

 銃の規制をするほうがよいという見かたがとられている。学校で銃の乱射事件がおきたことで、そうした声は強まっているようである。銃の規制をすることについては、賛成と反対で意見が分かれてしまいそうだ。賛成と反対で意見が分かれてしまうとして、その二つのあいだで意思疎通は成り立つのだろうかというのが気になるところである。

 全米ライフル協会の立場としては、あくまでも銃を持つ権利を守り、武装化をおし進めるつもりなのだろう。そのような立場が固定しているのだと、反対の立場の人との意思疎通は成り立ちづらい。双方向にならず、一方向になってしまう。自分たちの理法というのがあるわけだけど、それは絶対化せずに相対化されないとならない。価値というのは人それぞれであるものだからである。

 銃を持つ権利がよいものだとするとしても、それが逆にあだになり、よくないものになってしまっている。銃を持つ人間は神さまではないので、神さまのような正しさをもつことはできない。なので、銃を持つことで武装化をさらにおし進めるのにたいして、それを疑うことがいるのは確かである。確証(肯定)と同時に反証(否定)の視点をもつことがいる。銃を持つ権利が法によって保障されているのだとしても、その法のあり方が今の時点でまさにちょうどよいものだとは必ずしも言うことはできない。