制度が悪用されてしまっている現状があるという(個人の自己責任ではなくて、制度や環境に大きな非がある)

 裁量労働制にはわながあるのだという。この制度は、役人(と政治家)が考えて進めようとしていることだから、その制度がじっさいにどのような帰結をもたらす(もたらしている)のかが軽んじられてしまっている。そうした印象をぬぐいきれないのがある。

 裁量労働制を導入したことにより、それで労働者に何か益となるようなものがあるのであればよい。しかし、不益となったり損となったりするようなのであれば、いったい何のための制度なのかということになる。制度を導入する前よりも、導入したあとのほうが、労働者の待遇がよりよくなっているのがのぞましい。そうではなく、かえって悪くなってしまうのであれば、その制度には欠陥があると見なさざるをえない。

 制度を導入することで、労働者の労働時間が減ることになったというのであればよいわけだけど、そうではなくて増えることになるのであれば、逆効果といえる。労働時間が増えた分だけ、もらえるお金もまた増えるのであればまだましである。しかしどうもそうなっているのではないようなのである。制度の導入によって、労働時間は以前よりも増えて、もらえるお金は増えていない。これでは、単位時間あたりにもらえるお金の額が減ってしまうことをあらわす。

 労働者の人にとっては、労働時間が増えることは、それだけ自分から出てゆくものが大きくなるのをあらわす。そうして自分から出てゆくものである費用が大きくなるのにもかかわらず、入ってくるものである収入は増えることはない。これでは報われないことになってしまう。差し引きで見るとマイナスだ。そうしたのがあるとすると、裁量労働制をさらに拡大して導入することについて、教条主義のようにしておし進めるのは正しいことだとはいえそうにない。

 労働者の人が安心して働けるような環境を整える。そういうふうにするのならまだよいわけだけど、そうではなくて、労働者が神経を使わないとならなかったり、心配したりしなければならないことが増えるのであれば、それが労働者の益になるとは見なしがたい。制度の表向きの顔とは別に、裏があるので、心配や不安が生じるわけである。そしてその心配や不安はおおむね的中する。じっさいに不正が横行しているのがあるそうなのだ。制度としての不正義になってしまっている。これでは、最良とは逆の最悪ともいえるようなところがあると見なさざるをえない。

 不動産屋で物件をさがす。そのさいに、すごくよさそうに見える物件を紹介される。その物件を紹介するさいに、(紹介する側である)不動産屋は、お客さんの利益をかえりみないのであれば、悪いところをわざわざ言うわけがない。商売に不利なためだ。よいところだけを説明する。そのようにして、本当は悪いところがあるにもかかわらずそれを隠してしまうのは、民間のやりとりでも駄目なことであり、信用をなくす。ましてや公益に関わることであればもってのほかである。不誠実なあり方だ。悪くなっている実態をきちんと明らかにして、その声を受けとめるべきである。個人の自己責任ということで片づけてしまうのは、国民のためになっていない。