議論が盛んになったかどうかはちょっといぶかしい(主要な価値がちがっているので、強い不信がおきている)

 私が一石を投じたことで、憲法議論が盛んになったのは事実だ。このように首相は言う。それにたいして、山尾志桜里議員は、こう言い返す。一石を投じて明らかになったのは、総理が憲法をほとんどわかっていないということである。

 山尾議員は、首相が憲法をほとんどわかっていないと言っているわけだけど、それが本当かどうかはひとまず置いておくとして、理解したつもりになってしまっていることはある。そのようになってしまうのは、文脈を一つに固定してしまうことによる。そのように一つに固定するのではなくて、色々と視点を持ち替えてみれば、理解が深まってゆく。

 首相がいうように、憲法議論が盛んになったと果たして言えるのだろうか。議論が盛んになったかどうかは、改めてみると定かではない。それに加えて、理解がきちんと追いついていない。食べ物をつくるのにおいてのことで言えるとすると、時間をかけて低温で熟成させるのではなく、促成栽培として時間をかけずに早くつくろうとしているかのようである。

 食べ物をつくることにおいて、促成栽培のようなものだと、時間をかけないで早くつくることができる。そのほうが効率はよいわけだが、適正さの点では疑問符がつく。効率さというのは、はじめの目的がそうとうにしっかりとした正しいものでないと、まちがった方へどんどん進んでいってしまいかねない。そうした危うさがある。

 憲法議論が盛んになったと首相は言うわけだけど、これは、立場を異にする者どうしのあいだで対話が成り立つのを信じているわけだろうか。もしそれを信じているのだとすると、国内での憲法議論だけではなくて、国どうしの外交にも当てはめられるのがありそうだ。それとも、国どうしの外交ではそれは当てはまらないのだろうか。

 国どうしの外交で対話が成り立ちづらいことがあるように、国内の憲法議論においてもきちんとした実のある対話(議論)があまり成り立っていないのは無視できそうにない。首相が言うように議論が盛んになったというよりも、それがうまくかみ合っていない。残念ではあるが、そちらのほうが事実なのではないかという気がする。

 国内での憲法議論と、国どうしの外交での対話をいっしょくたにするべきではない。ちがう話だ。そうしたことが言えるかもしれない。そうしたのはあるわけだが、なぜ国どうしの外交での対話のことを持ち出してみたのかというと、それは首相による一部の他国への強硬な姿勢があるからだ。一部の他国へ向けて、もはや対話の局面は終わった、みたいなことを言っている。そのように対話を軽んじてしまうのではなく、国内での憲法議論のように、対話をうながしてみたらどうだろう。けっして簡単なことではないかもしれないが、試しとして一石を投じるくらいは多少はできるものだろう。小石でもよい。

 国会での答弁において、対話ではなく、独話の演説になっているのがしばしば目だつ。憲法議論をまともにしっかりと行なうためには、憲法議論ではないほかのことについても、ちゃんと対話や議論が成り立っていないとならない。それができていないで、なぜ憲法議論だけがきちんと行なえるのだろう。聞かれたことにきちんと受け答えないのや、対等な立場でのやりとりになっていず、地位や数の論理にものを言わせるようなのが少なからず見うけられるのは残念だ。こうしたことは、議論や質疑応答にたいする初歩の基本の技術がいちじるしくないがしろにされてしまっているせいなのがある。

 国内での憲法議論においては、立場のちがいを無視できそうにない。改憲か護憲かというのがあるわけだけど、それとは別に、決着がつくかつかないかというのもあるという。決着がつくというのは、一つの答えがあるとすることである。決着がつかないとするのは、いくつもの答えがあるとするものだ。このちがいにおいて、決着がつくとする立場とつかないとする立場のあいだで、そう簡単に議論(対話)が成り立つとは思いづらい。それがたやすく成り立つとするのは理想論であり、現実論とは言いがたいところがある。話がかみ合いづらいのがある。

 決着がつくこともないではないかもしれないが、その一方で、決着がつかないおそれも無視できそうにない。決着がつかないことであれば、それについて時間をかけたり労力をかけたりすることに合理性があるのかどうかを見ることができる。時間や労力は無限にあるわけではなく、有限さをもっているものなのだから、ほかのものにそれを振り向けたほうが有効なことがある。これは優先順位をどうつけるかということである。

 国民の益に直結しやすいようなことが、憲法議論のほかにあるとしたら、それを優先させるのも手なのは確かだ。ゆるがせにできない重要なことが憲法議論のほかにあるとしたら、それを優先してやらないでいるのは誠実なあり方とは言いがたい。憲法を変えればたちどころにそれが国民の益に直結するとはちょっと見なしづらい。憲法を改正するための国民投票というのがあるわけだけど、それをやったとして、あとに深刻な遺恨が国民のあいだに残らない保証はない。ことさらに憲法を変えなくても、国民の益になるようなことがほかに色々とあるのではないかという気がする。少なくとも、そうした問いかけをほんの少しくらいはしてもよいだろう。