世界中が憧れるというのは、映画の宣伝でいう、全米が泣いたみたいなのと通じるのがあるかもしれない

 日本は、世界中から憧れられる国である。何としてでも生きてゆくことができる。もし働けないとしても、生活保護の制度がある。そのように生きて行けるような環境がきちんと整っているのが日本であるから、もしある人が貧困なのだとしてもそれはあくまでも自分の責任であるのにまちがいない。日本を批判するのはしてはいけないことである。たんに受けたいだけか強欲なだけだ。まともな一歩を踏み出すべきである。

 このような趣旨のツイートがツイッターでつぶやかれていた。ここで言われる日本とは、ほんとうに実在する国なのだろうかというのがちょっといぶかしい。仮想の国なのではないかという気がする。すごく上げ底にされてしまっている。そのため、日本の国が超越の位置にまつり上げられてしまっているふうである。

 価値客体として日本の国があるとすると、それをどのように見なすのかは、一人ひとりの価値主体による価値判断でちがってくる。人によってはすごく満足しているのもあり、また逆にすごく不満をもっている人もいる。そうした色々な見かたを足し合わせることで、日本の国の社会的価値がなりたつ。上からこうだと決めつけるというよりも、下から積み上げて行くことができるものだろう。

 事実としてこうだというのが言えるわけだけど、そこに価値が少なからず入りこんでしまうのがある。その入りこんでしまう度合いが高いと、事実からかけ離れたものになってしまう。そのかけ離れてしまったものと、事実としてこういうことがあるというのを比べてみると、整合しないようになる。不整合になってしまうのであれば、改めて見かたを見直すことがあるとのぞましい。

 非の打ちどころがないほど生きて行くための環境が整っているのが日本だとしてしまうと、さまざまな社会の問題がすべて捨象されてしまい、ひどく象徴されてしまう。そのように象徴してしまうと、抽象になってしまうのがあり、具体の現実をとりこぼしてしまう。もっと具体の現実のさまざまな部分に迫って行くことができそうだ。

 ありがたやとして肯定される日本というのがある。まったくの嘘というわけではないにせよ、一つの虚偽意識(イデオロギー)であるということができるとすると、少なからず現実のあり方とは距離ができてしまっている。その距離による隔たりがあることを隠してしまうのが、虚偽意識による作用である。その作用にたいする反作用として、批判がとられることになる。おおい(カバー)がかけられているとして、そのおおいをとり外すのが、批判による発見(ディスカバー)である。

 傷が一つもつかないようなのが日本であるとしてしまうと、日本の国をすごくのぞましいものだとして仕立て上げることになる。そうして仕立て上げられたものの裏には、さまざまなのぞましくないものが隠ぺいされたり抹消されたりしている。そうした負のものを指し示すことが大切だ。そうすることで、さまざまな問題を発見することができる。

 日本の国が、生きて行くためにすごくよい環境が整っているとものであると見なす。そうして見なすことが表であるとして、その裏に何があるのかということができる。もしかしたら裏では陰で泣いている(泣かされている)人がいるかもしれない。不当な目にあっている人がいるおそれがある。社会の中で、しわ寄せがかかるのは、たいていは強者ではなく弱者である。弱者にしわ寄せがかかってしまうだけでなく、強者(の一部)にとっても少なからず生きづらいふうになってしまっているかもしれない。

 表向きとはちがい、裏では泣いていたり不当な目にあっていたりする人がいる。その客観の証拠があるわけではないんだけど、資本主義ではどこかで手ぬきやいんちきやずるをしないと利益を出しづらいのがある。十分に人の待遇をよくして、きちんと時間や労力をかけていたのでは、うまみが多く得られづらい。営利の主体は利潤極大に向かってゆく。できるだけお金を多く儲けようとする。そのために、効率をとるようにして、適正な過程を省くのが手として用いられる。

 表向きでは秩序が保たれているとしても、その裏では乱雑さ(エントロピー)が増えつづけていて、それが吐き出せていない。その乱雑さとしては、たとえば国や地方自治体がかかえているばく大な財政の赤字である借金がある。これをゼロにまでもって行くめどは立っていない。乱雑さを吐き出すことができる見通しが見えていない。それでも、そうしたのはとくに問題がないのだという意見もあり、また何とかなるだろうという希望による観測ももつことができる。希望による観測をとるのはよいとしても、それが裏切られたときにはまずいことになるのがあるから、そうならなければよいのは確かである。

 乱雑さとしては、格差がおきているのが無視できそうにない。とりわけ格差の下位に置かれているのだと、生きて行くことはできるとはいっても、その質が問われないことになってしまう。ただ生きて行くことができるというだけでは、人間らしく生きて行けていることにはならない。人間らしく生きて行くのができないのであれば、質がないがしろになっているのをあらわす。人間があたかも物のようにしてあつかわれていて、量ではかられて、物象化されているのだ。人間が物のようにあつかわれるのは、生ではなくて死による世界観だ。こうしたあつかいは、格差の下位に置かれている人だけに限られることではなく、世の中に広くまん延しているものである。

 日本は世界中から憧れられるほどのよい国なんだと言うのはよいとしても、それが啓蒙のようになってしまうと悪くはたらくことがある。啓蒙の弁証法がおきることになる。啓蒙の弁証法では、神話は啓蒙であると言われる。啓蒙は神話に退化するとも言われる。そのようにして、けっきょく神話になってしまうのであれば、ある限定されたところでしか通じづらい話になってしまうし、下手をすると宗教のようになりかねない。その点に気をつけられればよい。