否定の徒労(実存の苦悩)

 本当でないことを言う。そうして言われたことがあるとして、それを否定するのに労力がかかる。否定しようとすることが、本当ではないことなので、(言われてさえいなければ)本当は否定をすることがいらないものである。それをわざわざ否定しないとならないので、徒労となってしまう。

 本当でないことは言わないのが一番のぞましい。本当ではないことを、あたかも本当であるかのように言うのは、のぞましいことではない。そのように言うのがあるとしても、それがたとえば権力チェックであれば、目的はそれほどまちがったものではないのがある。権力チェックであれば、かりに本当ではないことがあとになって判明したとしても、自己(自集団)批判につながってくるものだから、まったく益にならないとは見なしづらい。本当ではないことを言わないようであるのがもっとものぞましいことではあるわけだけど。

 権力チェックといっても、その大事さにたいする理解がもたれているかどうかが関わってくる。そこへの理解が十分でないと、たんなる個人批判や自集団の名誉を損なわせているだけだと見なされかねない。そうしたふうに受けとられてしまう危険性は高まっている。面子(face)が重んじられているせいである。そこで忖度がはびこることになる。

 真実というのは、半分の真実であるのにすぎない。哲学者のアルフレッド・ノース・ホワイトヘッドはそのように言っているという。非の打ちどころのないような完全な真実なのではないということである。こうした相対性の視点をもつのがよいのがありそうだ。そのようにすることで、本当であるように言われていることが、もしかしたら本当ではないかもしれない、として留保をつけるきっかけをとることができる。

 本当かどうかが疑わしいことを、本当であるかのように言ってしまうのだとやっかいである。それをうのみにする人も一部には出てくるわけだから、そうした人が出てくることを送り手はあらかじめ見こしておかないとならない。そうしないのであればいささかうかつである。うかつになってしまうことがまったくないとは言えないので、あまり人のことを言えるものではないかもしれないが、できるだけ気をつけられればよい。あとになって本当ではないというおそれが分かったとしたら、そこで反証のがれをするのではなく、きちんと訂正して修正することができればのぞましい。もしそうすることがないのであれば、教条主義になってしまうだろう。閉じた物語となってしまう。