原因は個人というより社会にあるような気がしてならない

 とりあえず路上でまずははじまるんだろうね。ネットカフェ難民の人たちが、ネットカフェから離れて、ちがうところから生活するさいに、まずは路上からはじめることになるのだという。これはテレビ番組の中で言われていたことのようなんだけど、この発言にはちょっとびっくりしてしまった。なんで路上からはじまらないとならないのかが納得できない。路上といっても、色々な地域や色々な場所があるから、一概には言えないものである。

 路上だと、ネットカフェの環境よりもさらにずっと質が落ちてしまっていることになる。おそらくじっさいに経験したことがないだろうにもかかわらず、なぜ路上でまずははじめるようにするなどということが言えるのだろう。かりに経験があったとしても生存者バイアスがはたらく。いちど路上の生活をすることになれば、そこから脱するのは簡単ではない。住所がないわけだから、不安定のきわみである。日本では、住所がない人はきわめて厳しく冷たいあつかいを受ける。ネットカフェの環境と同じかそれ以上に、路上の生活からも脱しづらいのだから、解決策になっていない。

 路上で生活するとなれば、雨や風などといった自然の厳しさに直接にさらされることになる。体の弱い人であれば、病気になったり死んでしまったりしかねないことである。そうして体の弱い人には生命の危険性が高いのだから、路上で生活するのをすすめるのはのぞましいこととは言えそうにない。

 ことわざでは、衣食足りて礼節を知る、なんていうのがある。恒産なくして恒心なし、とも言われる。最低限の衣食住というのは、基本の必要(ベーシック・ニーズ)であるということができる。この必要は自然であるものである。そうしたものは、みんなに分け与えられて当然のことだというふうに見なすことができる。それが満たされなかったり偏っていたりするのであれば、分配の正義において、不正義になってしまっているのがありそうだ。

 テレビ番組の中では、ネットカフェの環境におかれている人がとり上げられていたようなんだけど、その人について、ちゃんと働いてほしい、というふうに言っていたという。そのように、ちゃんと働いてほしいというのを言うのは、一つの意見としておかしなものではない。とりわけ、普通はそのように言うことができるものではあるけど、そこで、しかしと言ってみたいのがある。しかしと言ってみたいというのは、ちゃんと働いてほしいということで終わりになってはまずいのかなという気がするからである。

 ちゃんと働いてほしいというのもあるわけだけど、それとは別に、ちゃんと聞いてほしい、と言いたいのがある。ネットカフェの環境におかれている人は、それぞれがみな色々な事情をかかえているものと察せられる。これはネットカフェの環境におかれている人に限られない。みなが色々な事情をかかえているのがあるのに、それがちゃんと聞きとどけられていず、一般論を押しつけられてしまう。ここに不幸の元がある。需要(ちゃんと聞いて)にたいして、供給(ちゃんと働いて)が合っていないのである。

 社会や政治において、儒教でいわれる仁の徳が薄くなっていて、消えて無くなる寸前であるとまで言えるのがあるためかもしれない。ここで儒教の仁の徳を持ち出してしまったのは、唐突なところがあるのは確かであり、またにわかの知識でしかないのも確かなんだけど、人が二人(以上)いるのをさす字が仁であることから用いてみたものである。仁の徳は愛によるものだが、そうではなく、一般論が一方向で押し通されて、つき放されてしまうのである。軽べつのまなざしが投げかけられて、自己責任だということで片づけられてしまう。