先制攻撃が有利だというのは、それが悪だからだというのがありそうだ(きちんと義務を守り、いかなるさいにも悪いことをしないようにするほうが、少なからず有利だともできる)

 専守防衛はあくまでも守るつもりである。そのうえで、首相はこのように述べている。防衛戦略として考えれば、専守防衛は大変に厳しい。相手の第一撃を甘受して、国土が戦場になりかねないものだ。先に攻撃した方が圧倒的に有利だ。

 ちょっとたとえは物騒ではあるかもしれないけど、人殺しにおいて、先に人を殺したほうが有利だ、というようなものだろうか。このたとえは、的を得ているかどうかに絶対の自信はないんだけど、そもそもが、人を殺してはいけないという決まりがあるのは確かである。その決まりの部分を無視できそうにはない。そこを無視してしまえば、先に人を殺したほうが自己保存には有利ではある。

 国際法においては、侵略や先制攻撃は明らかに違法であるとされているようである。これは、ある国が武力や軍事力をもっているとして、その力の違法な使い方にあたるのが、侵略や先制攻撃であるのをさす。ゆえに、正当化されるものではない。

 自衛を目的とした先制攻撃はどうかというと、それを理由にしたものも認められるものではないという。名目のうえで自衛とするのだとしても、それは名目のうえであるのにすぎない。あくまでも、相手からの武力の攻撃があってはじめて自衛としての自国の実力を活用することができる。

 首相は、先制攻撃をしたほうが有利だという。これを言い換えることができるとすると、法を守らないで、犯罪をしたほうが有利だ、と言うことに通じる。ここで想定されているのは、みんなが穏やかに暮らしているあり方ではなく、みんながおびえて不安に暮らしているようなあり方である。そうしたおびえや不安をできるだけ平和的な手段により払しょくするのが政治の役割の一つなのではないか。そうした負の感情をそのままにするのみならず、権力の維持に利用するのであれば、それはのぞましいこととは言えそうにない。

 先制攻撃の有利さが現実味をもった状況とは、たいへんに悲惨なあり方である。戦争状態だ。そうした悲惨なあり方をどうやってよい方へ変えてゆくのかがある。悲惨を悲惨のままにしておくのであれば、まっとうなあり方とは言えそうにない。世界において、秩序が崩れてしまっていることで、そうしたあり方となってしまっている。秩序が崩れたままでよいとすることになりかねない。

 先制攻撃がかりに有利になるのだとしても、それだからといって、そこからそのまま判断を導いてしまってよいものだろうか。そうしたことが現実味をもっているのだとしても、そうした現実がまちがっているおそれがある。とすれば、そうした現実からそのまま判断を導いてしまうこともまたまちがいとなりかねない。そこに留意するのがあったらよさそうだ。

 人間が人間を攻撃するために、武器を開発する。そうして武器の能力が発達していったために、先制攻撃をすることが有利になってしまった。そうした背景があるそうなのである。この背景を改めて見ることができるとすると、武器を発達させてしまったことがあだになってしまい、人間が人間の首を自分でしめているのがうかがえる。発達させすぎてしまった武器を、手放したり、または退化させたりすることができればよさそうだ。とはいえ、そのようにすることは難しいのがあるのは確かだろう。難しいからといって、あきらめてよいものとも思えない。

 専守防衛は厳しいということだけど、そこから脱して、先制攻撃をこちらができる能力をもつ。そのようにすると、かえってこちらが先制攻撃を受ける危険性もまた高まる。なので、逆効果にはたらくおそれがないではない。被害を受けるのをおそれるあまり、逆にこちらが加害者になってしまうのだとしたら、本末転倒だ。そうしたことが絶対におきないという確証はまったくない。先制攻撃は、それだけで終わりであることにはならず、始まりであるということである。

 先制攻撃が有利だというのは、きわめて悲惨なあり方の中においての話である。そうした話をいったんわきに置いておけるとすると、先制攻撃が有利ではないあり方もあると見なすことができる。合理として見れば、国が先制攻撃をしてそれで終わりとはなりづらいわけだから、有利になるとは言いがたい。先制攻撃そのものが悪いことであるのだから、そのごに永続として非難されつづけるのを覚悟しなければならない。

 先制攻撃をしたとすれば、した側が苦しむことになるし、苦しむべきである。先制攻撃をする(した)ことを合理化してはならないものだろう。もし先制攻撃をしてしまったり、戦争をしてしまったりした過去をもつのなら、不戦の誓いをいま一度確かめて見直すことがより早急にいるのではないかという気がする。敵基地攻撃能力をもち、先制攻撃ができるのでなければ、国民を守ることはできない、とは必ずしも言えないはずだ。結論を単数化せずに、複数でもつことができるはずである。

 参照した文献:『「集団的自衛権」批判』松竹伸幸、『幻想の抑止力』松竹伸幸、『集団的自衛権はなぜ違憲なのか』木村草太、『ケルゼンの周辺』長尾龍一、『中高生のための憲法教室』伊藤真、『幸せのための憲法レッスン』金井奈津子。